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最近、夢を見なくなった。 あの人といると、特に何もしていなくてもどっと疲れてしまう。だから夜は、死んだように眠ることが多かった。暴力を振るわれた夜など尚更だった。痣にできるだけ触れないように、傷口を擦らないように、ベッドの上か、ソファーか、床で凍えながら眠る。どんなに暑い夏の夜でも、私は冷めた身体を持っていた。そのせいで夢を見ない。ただ深い眠りについていても音にだけは敏感だった。これは多分、動物的本能。 夜中、ふと目が覚める。額には嫌な汗が滲み出ていた。私の隣にはブル君がいる。確実に、絶対に、ブル君がいる。さらさらな黒髪に静かに立てる寝息、においに優しい手。ああ、これは彼だ。ブル君だ。私の大好きな人。ここは彼のベッドで、私は彼の家に居て、彼の元へ逃げてきて。今、何時だろう。あの日からどれくらい経った?目覚まし時計は1時14分。とっくに日付を越えている。今日は、何日。 心臓がどっと大きく鳴る。ここからカレンダーは見えないけど、私は知ってる。今日は、あの人が、出張から帰ってくる日だ。逃げてきた日からなるべく考えないようにしていた日が来てしまった。私があの人の元から去ったことが、あの人に知られてしまう。家を出て、ブル君の優しさに浸って、浮かれていたんだ。どんなに彼に大事にされていても、平凡な毎日を送ろうと努力していても、私はまだ重い荷物を背負っていて、縛るものは身体に巻き付いたまま私の枷として離れてくれない。すごく理不尽だ。頭では理解していても実際に手を上げられる恐怖は経験しなければ分からない。私が居なくなったことで、あの人が怒ってしまったら。どうにかしてここを突き止めて怒鳴り込んで来たら。ブル君を傷付けたら。私は、どうすれば。本当にあの人の行為を阻止出来るのだろうか。ブル君のためなら何でもやれると考えてきたけど、私の力と精神などたかが知れてる。私は弱い。時にブル君とあの人が重なって怯えてしまう程に。 すやすやと眠るブル君の前髪に触れるともうどうしようもなくなって、私は歯を食いしばって泣いた。彼の枕に大きな染みができる。彼の穏やかな寝顔が私を見ていて、私は涙が止まらなかった。怖い。怖い怖い怖い。影を持つあの人の姿が頭をよぎる。払っても払っても鮮明になっていく。こんな記憶も思い出もいらない。捨ててしまいたかった。私は、ブル君と、ブル君は、ブル君に。 彼を起こさないようにそっとベッドから降りて、涙を落とさないように彼の頬にキスをした。 「ごめんね」 掠れる声で呟いて、キッチンへ行く。 コンロの隣にまな板と包丁が並んであるのを見て息を呑んだ。 私は、もう駄目だと思ったら、ブル君に止められてもそれを振り切って、あの人に、これを、使うんだ。 そんな恐ろしい誓いを立てて、そうしか出来ない自分を責めた。 ソファーに横になっても全然眠れなかったので寝室に戻らなくて良かった。目を開けたまま長い時間ぼんやりしていると朝になったので、私は気だるい身体に鞭を打って朝食の準備に取りかかる。 「……」 「あ、おはよう。どうしたのそんなに慌てて」 「いや、普通びびるわ。起きたらお前が居なかったら…」 「昨日も一昨日もその前も私ブル君より先に起きてご飯の準備してたのに」 「だって、夜中に一度起きただろ?眠かったから記憶曖昧だけど…、その後戻ってきたか?」 「…実はソファーに横になってそのまま寝ちゃったのよね」 目玉焼きを作ろうとしてフライパンに投入した卵を崩してしまったので仕方なくスクランブルエッグにする。彼は私の言葉に成程と呟くとまな板の上からハムを一枚取って食べた。 「すげー隈」 「そう?」 「ソファー寝にくかっただろ。俺も酒飲んでたまにそのまま寝ることあるけど起きたら首バッキバキだしなんか怠いしで疲れるよな。今度から俺のこと気にせずに戻って来いよ」 「気にせずに?」 「どうせのことだから俺を起こすとでも思ったんだろ。んなの別に気にしねーんだわ」 「…よく分からないけど分かった」 「おい」 この人は、どこまで私を理解すれば気が済むのだろうか。それでも肝心なところは知られていないようなので内心ホッとした。火を止めてから彼に抱き付いて目を閉じる。 こうしている間にも時計の針は進んでいく。あの人が帰ってくるまで、もう時間がない。
2015.6.22
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