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怖がって逃げ出した先に、安寧が待っている保証はどこにもない。かといって立ち向かう勇気もないので、私はただ息を殺して恐怖が早く立ち退くのを祈るだけだ。 あの人が出張から帰ってくる日から数日経った。連絡はない。当然だ、携帯の電源を切ってスーツケースの中に仕舞ってしまったのだから。 ブル君はそれだと俺との連絡手段はどうするんだと笑ったけど、決して咎めることはなかった。それどころか固定電話の購入を真剣に考え出してしまったので、流石にそこまでしてもらっては私が困ると思い断った。 「まあ、家にいる分には多分大丈夫だと思うけどな。でもお前もどこか出掛けたりしたいだろ」 外に出るのはブル君と一緒の時だけだ。この辺りは全く知らないわけではないけど、何となく一人だと怖くて出られないでいた。また心配させたくなくてそんなことは彼に伝えていないけれど。 ただ、思うことはある。ブル君は働いているから、出掛けるのは夜か休日だ。ご飯は私が作ることが多いけど、食材も一人で買いに行ければ彼の負担が減るんじゃないか。ここから歩いて10分のスーパーには何度も行っているから道は分かる。品揃えや配置、特売の曜日も知っている。 「気になるなら、携帯買い替えるか?」 「…大丈夫よ。それにまだ新しいからもったいないし」 そう。大丈夫だ。いい加減私も自分から動かなければ。いつまでもブル君に甘えていてはいけない。 風呂に入る彼を見送って、私は味噌汁の鍋の蓋をする。彼が上がってくる前にポテトサラダを皿に盛って、上がったタイミングで味噌汁とご飯をよそえば丁度いい。私は冷蔵庫からポテトサラダを出して皿に盛り、余りはタッパーに入れた。それを再び冷蔵庫に戻す時に、私は小さな決意をする。 翌日、やや緊張した面持ちの私をブル君が不思議そうに見ていた。 「顔がひきつってるぞ」 「寝不足よ」 「わけわかんねーんだわ」 と言いつつなんだかんだ心配してくれている彼を仕事に送り出してから、私は自分の身仕度を済ませる。バッグの中に財布とメイクポーチを入れて、少し悩んだ末に結局携帯は持っていかないことにした。スーツケースの中にあるそれはもう電源が落ちていると思うので、それなら持っていく意味がない。つくづく臆病な自分に嫌気が差すが、刷り込まれた恐怖は相当なのだとどこか他人事のように感じる私もいた。感覚がおかしくなっているのかもしれない。 私は煩い心臓に卒倒しそうになりながらも靴を履き、ドアを閉めて鍵をかける。風が頬を撫でた。ふう、と一息ついて、階段を降りて左右を確認してから歩き出した。 たった10分の道のりにどんなものがあったか覚えていない。気付いたらスーパーの前に立っていて、私はそのまま中へ入った。今日はお肉が安い日だ。いつも二人で来る時みたいに入口のカゴとカートを取り、まずはお肉のコーナーへ向かう。よく吟味してからカゴに入れる。時々周囲を見回すが、知り合いはいない。私の緊張は徐々に薄れていく。ほら、大丈夫じゃない。ずっと私の心を締め付けていたものがスッと消えたような気がした。そうよ。考えすぎていたんだわ。 あの人が、こんなところに現れるわけないじゃない。 そう思うとすっきりして、私は明後日までの食材の他に余計なお菓子や飲み物までカゴの中に入れてしまい、レジでちょっと後悔することになった。それでも大袈裟な達成感によって何だか前向きな気持ちだ。帰りの10分はきちんと前を向いて歩くことができた。 夜、今晩の夕食である餃子を作っているとブル君が帰宅した。 「あれ、餃子の皮なんてあったっけ?」 「今日買ってきたのよ」 「…一人で?」 「そう」 意識しないと緩んでしまいそうな口元にぎゅっと力を籠めると、ブル君が私の頭にそっと手を置いて優しく撫でる。その後スーツを脱ぎに彼が寝室へ消えるのを待ってから、私はにやにやを抑え切れずに一人で喜びを噛み締めた。一人でおつかいに行って褒められた子供のようでちょっと恥ずかしいけど、嬉しさは本物だから仕方ない。私は餃子の具材を最後の皮に包むと、ホットプレートを出しに食器棚を漁りにキッチンへ行く。 明日からもっと色んなことをやってみよう。あの人と結婚する前、ブル君と一緒にいた頃の私に戻るために、やるべきことは沢山ある。私は私を取り戻すんだ。
2016.2.20
title:mjolnir |