![]() 敗北の臭いがした。しかしそれは俺自身の戦ではなく、もっと強大な鬱陶しい理想論の闘いだ。いつぞやの終わりに香った、それに似ている。 俺は連日上司と共に仕事に追われていた。実質兄さんの方が忙しかったろうと思うが、いかんせん連絡の取りようがないので分からない。だが、分かる。兄弟だからな。 はよく俺を助けてくれていた。いばら姫に出てくる賢い女のように、様々なものを与えてくれる。いつも笑顔で、時に鋭く、優しかった。 「ルート、眉間の皺が凄いことになってる」 「…」 疲労した目を少しでも癒そうと目を閉じていると彼女の声が聞こえた。瞼を持ち上げると、彼女の手がにゅっと顔面近くに伸びてきていて驚いた。彼女の指が俺の眉間を撫でる。 「びっくりした?」 「目を潰されるのかと思った」 「そんなグロテスクなことしないわ」 ぬるい体温で俺の眉間を擦るが短く息を吐く。俺は彼女の腰にそっと腕を回した。普段の俺からは想像し難い行動にが目を丸くしたので可笑しかった。確かに、今は仕事中だ。そうでなくても俺がこんな風に積極的になることはまずない。俺はイスに座っているので、立っているの身体と自身をこれ以上密着させると顔が胸に当たる。…いや、考えるのはよそう。面倒なことになる前に。 「最近してないから…」 「何の話だ?」 「とぼけちゃって。発情しかけたくせに」 がかがんで俺に口付ける。俺の後頭部に手を回した彼女によって主導権を奪い返すタイミングがなかなか掴めなかった。部屋に卑猥な水音が響く。おい、やめろ、仕事中だぞと、頭の中の正しい俺が警鐘を鳴らすが、遠くなっていくこの耳には無意味だった。 「ルート、ルート」 が猫のように甘える。その時にわずかに香った臭いに俺は思わず顔をしかめた。血と包帯の臭いだ。また、俺の知らないところで。 「一旦、さよならだね、ルート」 「……」 「兄さんが恋しいんでしょう。分かるよ。大事な家族の元に、早く行ってやりなさいよ」 視線を下げると彼女は俺の頭を抱える。今度こそ顔に胸が当たった。しかし先程までの厭らしい感覚はとっくに失せていた。 彼女の心臓が確かに、動いている音が聞こえる。 俺はただひたすら彼女に謝罪するしかなかった。彼女は家族と言ったが、俺と兄さんは家族ではない。兄弟だが、違う。俺は持ったことはないが、きっと、家族というものは、家族に対しては、無慈悲なことはできないんだと思う。 だから、俺は違う。 本当に大切ならば、兄さんとを天秤にかけたりなどしないのだ。 「…すまない……本当に…」 「いいのよ」 「何故、俺を責めない…!?」 俺は立ち上がり彼女の肩を掴んだ。身長差があるせいでまるで苛めているようだ。は悲しそうに俺を見つめた。そんな目で、俺を見てほしくなかった。 「分かってた」 「何を分かっていたと言うんだ。情報が漏れていたのか?いや、俺はまだこのことを公言していないからな。お前、人の心が読めるのか?遂に悪魔に魂を売ったのか?違うか?」 が首を横に振る。では何だ。俺は彼女を言葉の拷問で苦しめようと試みた。しかし、身体に力が入らない。力の代わりにみなぎってきたのは愛情と虚無感だった。 「俺はお前と兄さんを天秤にかけて、兄さんを取ったんだぞ」 「それでいい」 「…」 「さっきキスをしたら、貴方は私を抱き締めたでしょう。それで十分よ。今、どこもかしこも傷だらけで不安定なの。人間はすぐ壊れてしまうから、私達がしっかりしないといけないわ」 彼女が笑った。折れそうな四肢で立っているのもやっとなくせに、笑顔などどうして見せられるんだ。 その様が、何もかも背負おうとした兄さんに少しだけ似ていた。 「それにキスをしたせいで、貴方はきっと私を一生忘れられない。真面目すぎるのよ、貴方。だから、今よりもっと楽になったら……気が向いたらでいい、私をまた迎えに来て」 「必ず迎えに来る。お前が嫌だと泣き喚いても連れ出すからな」 「そう。楽しみにしているわ。せめぎ合う愛情と理性に困惑する貴方、セックスの時にしか見られないから」 それは予言だろうか。それとも預言だろうか。は賢い。きっと彼女なら、死の呪いも百年の眠りへと変えてくれそうな気さえした。
2016.5.29
material:月の背中 |