夕食を終えて食器を洗っていると湾ちゃんに呼ばれた。客なんだからと一度は私を止めた香君も、何もしなさすぎるのは気が引けると言った私に折れて、横で濡れた食器を拭いてくれている。
「!出来たヨ!」
「ここは俺に任せて、湾のとこに行って来い的な」
「え、でも」
「いいから」
タオルをかけた香君が私から泡の付いた皿を取り上げて、視線で行けと訴えてくる。諦めて「―早くー」という湾ちゃんの声に返事をすると、香君が笑ってくれた気がした。
軽く手を洗ってからリビングを出ると、二階から降りてきたらしい湾ちゃんに腕を引かれて階段を上る。その途中に、やはり可愛らしい落ち着いた油絵や小物が飾られていて何だか嬉しくなる。
湾ちゃんの部屋は階段すぐ横にあった。私たちが部屋に入るとアーサーがそこから出ていく。
「この部屋には悪戯好きの妖精が住んでいるらしいな、湾」
「…フン!素直に散らかってるって言えばいいでショ!ほら、もうマユゲは出てってヨ。女子の部屋にいつまでも居なイ」
「誰の家だよ」
「今は私の部屋だヨ」
二人のやり取りに思わず吹き出すと、アーサーはわざとらしく咳払いし、湾ちゃんは恥ずかしそうにはにかんだ。
03.わがままを言ってみて
「、先シャワー浴びて来ていいぞ」
「どさくさ紛れにマユゲがセクハラしてル!」
「そんな、悪いわ。私最後でいい」
「気にするな。結構歩いて疲れただろ?それに、足の怪我も消毒しなきゃな」
私と湾ちゃんの、え、という声が重なる。確かに靴擦れしていて血は出ていたけど、多分もう止まっているし、何より足先はスリッパで見えないはずなのに。
「そうだったの?早く言ってくれれば良かったのニ!でも気付かなくてごめんネ。マユゲの言う通り先にシャワー浴びてきなヨ!パジャマは私のを貸すかラ」
「そういうことだ、な?」
「分かった。じゃあ、お先します」
アーサーが下に行ったのを確認してから、湾ちゃんはクローゼットを開けてピンクのパジャマとバスタオルを貸してくれた。そして私がお礼を言う前にドアをぱたんと閉めて、こっそり「アーサーは本当に変態だから気をつけてネ」と耳打ちした。
シャワーを浴びている最中、頭の中をロンドンに来てからの生活が走馬灯のように流れていった。短い間だったけど、本当に色んなことがありすぎた。一番心配していた語学力は意外と何とかなって、最初はしどろもどろになりながら涙を堪えて口を動かしていたのが、今ではちゃんと相手の目を見てゆっくりでも会話することができる。発音も文法も危ないところは沢山あるけど、自分を落ち着かせることでミスをなくそうと努力しているつもりだし、何よりも私の言葉を懸命に理解しようとしてくれる温かい人が私を助けてくれる。エリザみたいな優しい友達も出来たし、大好きな学問だって専門的に学べている。親だって始めから私の留学という夢を応援してくれていた。それなのに。
自分でも本当はよく分からない。何か決定的な何かがあったわけでもないと思う。でも、気が付いたら逃げ出していた。私の中で何かが溢れて零れた。涙さえ出なくて、ただ必死に、まるでそれが義務であるかのように、憧れのロンドンから離れようとしていた。もう駄目だと思ってしまった。見慣れたロンドンが遠い地平線の向こうに消えて、その後を追うように沈んでいく太陽の眩しさに、やっと目を覚まして視界が滲んだ。
私は、取り返しのつかないことをやってしまったのだ。
シャワーのお湯を当てる度に足がヒリヒリと痛む。現実に引き戻された私の涙腺がまた緩んだ。誰も見ていないことを良いことに、私は一人で散々泣いた。声が出ないように唇を噛んで、それでも念には念をとコックを捻る。勢いよく出たお湯から湯気が立ちのぼり、私の無様な姿を気休め程度に隠してくれた。
血が昇ったまま重かった頭は泣いたお蔭で軽くなり、ついでに熱も奪っていった。やや冷静になった頭で廊下に出る。この家に入った時に感動した、アンティークな小物が目に入ったので近付いてまじまじと見つめた。本当に人の手でこんな繊細なものが作れるのだろうかと思ってしまう。錆びた色のネジが同じく錆びた色の小さな部品と部品を繋げている。その横の薔薇の装飾は計算されたように色褪せていた。小物入れだろうか。開けて中も見てみたいけれど流石にそんなことはできなくて何もしなかった。
「それは、オルゴールだ」
背後から声がしたかと思うと、ラフな格好をしたアーサーが立っていた。自然な動作で私の横に来て、先程の小物入れと思しきオルゴールを開ける。
「…本当だ、綺麗ね」
「随分昔に買ったものだけどな。俺は意外と良いセンスをしていたらしい」
「自分で言うの、それ」
か細いメロディーを奏でるそれを置いてある木の棚も共鳴して、静かな空気に色を差した。
「本当は小旅行じゃないんだろ」
オルゴールの戦慄に浸っていると突然彼が呟く。私は一瞬声が出なくて、少し迷った後、溜息と一緒に小さく頷いた。泣いたせいか、もう隠す気も起きなかった。もしかしてアーサーは最初から気付いていたんだろうか。だから私に声をかけたのだろうか。
「お前はいつどこで見かけても、悩んでいるような顔をしてるな」
「そう見える?」
「意外だったか?別に常に気難しい顔を崩さないと言ってるんじゃない。ただ…例えば笑顔でいても、それが少し不自然なんだ。まるで、心から笑っていないような、そんな感じがする」
「不自然…」
「あ、いや……悪く言ったつもりは無かったんだが…言い過ぎた。すまない」
「ううん、大丈夫」
アーサーはばつが悪そうに視線を下に落とした。私は彼の表現を音もなく反芻する。思わず顔に手をやってしまった。むにむにと頬を揉んでみると、アーサーが口元を緩める。
「」
「……」
「苦しくなったら、周りを頼れ」
彼の翡翠の瞳が私に向けられた。底の見えないそれは、けれど私を何もかも見透かしたように適度に濡れていて、不思議と怖くはなかった。私は返事が出来なかったので先程と同じように頷くだけだったけど、アーサーはそれでも満足そうだった。
「このオルゴール、お前にやるからな」
「…え、でも」
「いい。一度やると決めたからやるんだ。貰ってくれ」
私の両手に収まるサイズのそのオルゴールはとうに大人しくなっていた。アーサーに促されて再び小さなつまみを回すと、またあのメロディーが流れた。
アーサーはその後私の靴擦れの治療をしてくれた。血は止まっていて、治療といっても軽く消毒して絆創膏を貼るだけの簡単な処置だった。私は貰ったオルゴールの細部を見るふりをして、時々足元のアーサーの金髪を眺めた。その色が陽に灼けたロンドンの街に似ていて嬉しくなる。やはり私は、この国が好きなのだと思った。
2014.10.29
title:金星(小惑星宇宙)