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冷たい壁に背中を張り付ける。夜も更けて静まり返った廊下に私ただ一人。手の中には愛の形をした紙をしたためている。それを何度も眺めて私は息を吐いた。 暫くすると無機質な音が響き渡る。 「ジャーファル」 彼は私を一瞥し、部屋に入ろうとする。私は張り付けた背中を剥がして彼に駆け寄る。 「ジャーファル、」 彼の官服の袖を控え目に引っ張ると振り払われる。 「ねぇ、これ書いたの」 「煩い」 王や文官達との会話では聞いたこともない冷たい声に私は小さく震えた。これは私だけのものだと思うと酷く興奮する。相変わらず背中しか向けてくれないジャーファルの胸にそっと手を回す。そうしたらすぐに足を踏まれ、手の甲をつねられて、痛い。 「ジャーファル」 「訊くまでもないですが、どうやってここまで来たんです?」 「ジャーファルのことが好きだから、簡単だったわ」 周りの人の目を盗むなんて造作もないことだ、好きな人のためなら余計に。抱きついて一向に離れない私に苛ついているのか、ジャーファルの爪が私の手の甲にぐいぐい食い込んでいく。鋭い痛みと歓喜で、私は身体を更に密着させる。と、ついに完全にほどかれてしまった。名残惜しく自分の手を擦ると、彼の爪の跡に血がうっすらと滲んでいた。不安定な心臓のまま、舌を少し出してそこを舐めあげる。 ふと顔を上げると、いつの間にかジャーファルがこちらを見ていた。真っ黒な空には月がぼんやり浮かんでいたけれど、逆光で彼の顔はよく分からない。 汚い、と彼は言う。 「恋って、綺麗なばかりじゃないわ」 「君は汚い」 「理想ばかり語らないでよ」 「だから、近寄らないで下さい」 突き放されるのに慣れすぎて毎日それこそデジャヴだった。今日こそは、と毎度同じことを考えて、結局同じ道を辿って終わる。私は変化が欲しくて、シンドリアを訪れたある旅行者に教わった、愛の形を試した。紙で折った鋭利な角をジャーファルの手に軽く刺すと、フェイントだったのか彼の瞼が幽かに動く。 「手紙書いたの」 「可笑しな形…」 「ハートっていうらしいわ。愛の形なのよ」 漸く私からそれを受けとると、ジャーファルはひとしきりハート形を指先で吟味した後、綺麗に二つに裂いた。もっとビリビリに千切られてしまうと思っていた私は、自分の後ろ向きな予想と目の前の現実にぽかんとした顔を晒した。紙が破れるあたたかみのある音は、夜の静かな宮殿には響かなかった。月が雲に隠れて暗くなる。 動けずにいたら、突然の足音と布の擦れる音がした。次に、息が詰まる程の圧迫感に、閉まりかけた気道からひゅ、とちょっと怖い音の息が出ていった。風で雲が晴れて、月明かりに照らされたジャーファルはひっそりと、私を強く抱き締めていた。 「」 耳元に生ぬるい息を吹き掛けられたと思えば、彼は私をきつく抱いたまま顔を私の正面に持ってくる。鼻と鼻が擦れる感覚に背筋が震えた。私はこういうチャンスの時に限って、興奮よりも羞恥が勝ってしまう面倒くさい女で、その辺の普通の女子みたいにぎゅっと目を瞑る。ああ勿体ない。彼のくれるものなら何でも、たとえ情けや同情でも、貰うべきだというのに。腹立たしいことに涙まで滲んで。 ジャーファルは私の瞼を一度唇で食んで、それからすぐに顔を少し離した。 「目を開けて」 従わない理由よりもほとんど反射的に目を開けると再びジャーファルの唇が近付いてきて咄嗟に距離を取ろうとするも、背中に回されていた彼の右手が私の後頭部を掴んでそれを阻止する。 「逃げるな」 酷く低い声が静けさに消えた頃、ジャーファルは今度は私の睫毛を歯だけで噛んだ。上の歯と下の歯を器用に擦り合わせて、睫毛を潰そうとしているみたいだ。時折彼の唇が瞼に触れて、そんな些細な刺激にも大袈裟に反応してしまう。 喉を鳴らして笑うジャーファルが、冷ややかに呟いた。 「ほら、受け取れない」 この一言で涙腺の決壊した私は、だらしなく垂らしていた両腕で彼にしがみつきながらぼろぼろ泣いた。私達の足元には、壊れたハート形の手紙がある。
釣り合わない
2013.11.3
お茶会楽しかったです。ありがとうございました! |