とどめの魔法
遅くなるから先に飯食ってろ、というメールが届いたので、いつもより薄味になってしまった煮物といつもよりも味付けが濃い焼き魚を、ご飯と味噌汁と一緒に一人で黙々と食べた。煮物はだし醤油をもう少し足せば良かったわ、魚はあらかじめ味付けされたいつものスーパーのいつもの切り身魚なのに今日はどうしたのかしらと、咀嚼しながらぼんやりと考える。食事中はテレビを付けない上に、部屋に私一人だけということもあって、余計に夜を意識してしまう。
夜というのは静かだ。それが安らぎをもたらすこともあれば、恐怖を引き連れてくることもある。

ふと、前の家のことを思い出す。あの人と一緒に食事をしたくなくて、私は陽が傾き始めると同時に夕食作りに取り掛かっていた。嫌いな相手と言えども、結婚と同時に退職せざるを得なかった私にとって彼は正真正銘のパトロンであったので、勿論彼の分も作っていたが、完全な夜が来る前に私はさっさと食べ終えて、風呂に入って先に布団へ入っていた。あの人はアルコール漬けになっている時以外は暴力を振るってくることはなかったし、それも寝ている私を叩き起こしてまでという程でもなかった。彼を庇っているわけではないし、庇う気なんてこれっぽっちもないけれど、酒に溺れている時以外はまあ平凡な男だったように思える。

そこで私ははっと我に返った。あの人なんかに平凡さを感じる自分が恐ろしい。この感覚器官と脳みそが憎たらしくなる。自分に嫌悪する。それでも、ブル君の元へ逃げてきた時に比べたら恐怖は確実になくなってきている。試しに暴力を振るわれている時のことを思い出そうとするが、あまり思い出せなかった。それは物理的にというより恐らく私の精神的な無意識の部分のせいで、またトラウマを掘り返して身動きが取れなくならないようにと心が制御しているのだと思う。前は忘れたくても忘れられなかったのに。
良いことだ。良いことのはずだ。私はブル君と一緒になって、一緒に幸せになるために、あの人に関わることは全て消さなければならない。あの人は存在そのものが私達の幸せを阻害するし、私だってトラウマに苦しむのは嫌だ。


けれど。
何だろうか、胸の奥に滲むこの不思議な感覚は。緊迫性のない焦燥と、それを笑顔のまま受け入れる私。
本当に、大丈夫だろうか。このままブル君の隣で幸せになることができるのだろうか。幸せの先にあるものは、それを超越した幸せなのだろうか。
箸が止まる。
私は今、何を考えた?

「…?」

突然の自分の名前を呼ぶ声に肩をびくつかせると、私の顔を覗き込んだ彼が酷く申し訳なさそうにした。

「あ…おかえり。早かったね」
「ごめんな、びっくりさせて。ただいま。怖い顔してるんだわ」

何かあったのかと問うブル君に、何でもないよと笑って返した。すると彼は眉間に皺を寄せる。

「嘘だな。またそうやって抱え込んで」
「またって。何でもないよ、考え事」
「……なんかあったのか」

念を押すように再び尋ねるブル君を安心させようと、彼の手をぎゅっと握る。寒かったのだろうか、いつもあたたかいその手は冷たくなっていた。

「…幸せだなって」
「うん?」
「幸せだなって思ったのよ。ブル君の帰りをブル君の家で待つことができるの」
「…そんな顔には見えなかった」
「それはねえ、この味の薄い煮物と味の濃い魚のせいなの。だってちょっとミスマッチじゃない?」
「ミスマッチって?」
「美味しいご飯を作ってブル君を迎えたかったなって。この料理じゃあ、ちょっと不釣合いでしょう」
「……別にの作った飯なら何でも美味いし、煮物と魚を一緒に食えば塩分の問題は解決するんだわ」

プラマイゼロだと胸を張るブル君がおかしくて、愛おしくて、ゆるゆると口角が上がる。この人と一緒に居ると笑顔になれる。この人と居るとあたたかい。彼を信じることに何の心配も躊躇いもいらない。
腹減ったと言いながらお腹を擦るブル君のご飯をよそいにキッチンへ入ると、後ろからふわりと抱き締められる。

「着替えておいで」
「うーん……」

私の肩に顔を埋めるブル君が甘えた声を出す。何か、心の奥の方で物事の枠組みを理解できた気がした。
幸せとは、きっとこういうものなのだ。料理の味が濃いだとか薄いだとか言い合ったり、触れ合ってあたたかくなったり、その反動で一人でいる時に寂しさを感じたりだとか。
絶対に幸せになってほしいのだと、エリザに言われた。それは多分、こういうことをも含めたもっと大きな「幸せ」だ。結婚という約束や夫婦という関係性だけで簡単に語られるべきものではない。もっと、もっと、言葉にできないくらいの。
二人でもっともっと幸せになるんだ。幸せの中にいて、幸せを見失ってしまうくらいに酷く当たり前な、彼の側にいられる日常が欲しい。
私は、私達は、それを手にしなければ。
2017.2.22
title:mjolnir