手を掴むのは私ではない
手を掴むのは私ではない



動くことを忘れると腐ってしまいそうで、それをよく理解していた私の優秀な上司は精神が麻痺する前に決断を下した。悪いと思わなかったし、それがお互いにとって一番良くて、いずれ来ていただろう避けられない現実を人の手で早めただけなのだと納得している。アーサーとアルみたいに悲しい最後ではない。どちらかがどちらかの元を去るわけではない、ただ少しの間だけ離れるのだ。

言い訳ならいくらでも語れる。


「菊は私が離れていったら私のこと嫌いになる?」
「いいえ」
「寂しくないの?」
「寂しくありませんよ」


菊はそう言ってにこりと笑ったので、この人は私のことなんて何でもないのかしらと思った。表情の薄い瞳は私を見据えても相変わらず興味など微塵も持たない。長い間一緒にいるけれど、この人の好きなこともろくに知らない。彼は私をよく知っているが、だけどそれは私が可愛い可愛い妹だからだ。何かを問えば必ず菊は兄として話す。彼がいつも言うように、私はいつまでも可愛い妹でそれ以上にもそれ以下にもならない、微妙な位置に佇んでいるのか。私は貴方の顔を見る度におおよそ「兄」に対して持たないであろう熱ばかりが身体中を駆け巡るというのに。
私とはまったく正反対の涼しい彼の顔にはやはり動揺も寂しさも見られなくて、だけど私と離れられるのを喜んでいる風でもないからちょっと安心した。そう考えてしまう自分が情けなくて切ない。私だけが菊のことを好いてて、ただの一方通行だと自分で認めているようだった。
いつもそうだった。菊は私の気持ちに気付かないふりをして私を弄ぶ。この前は私との用事を断っておいて綺麗な外国人の女の人と会っていた。と思ったらそれはエリザベータだった。後で彼女に聞いたら、仕事で会っていただけなのだという。彼が私を仕事だと言って断れば、私はこんなに身を焦がすこともなかった。菊を問い詰めても、やはり黒く澄んだ瞳は好奇心の欠片もないのだ。そのくせ私には気付いている。私の心もよく知っている。


「菊は平和的な解決をいつも望むよね」


取り繕うように話題の方向性を微妙に変える。


「そうでしょうか」
「そうよ。いや、だからどうってわけじゃないけど。平和に終わることは大事だもの」
「……ああ、さん、私やっと分かりました」
「何が?」
「貴女、寂しいんでしょう」


底の見えない瞳が私を射ぬく。反射的に目をそらし、彼の言葉をゆっくり咀嚼する。


「寂しいよ」
「大丈夫です。以前お話したように、会えなくなるわけじゃないんです。会いづらくなるだけです」
「違うの。菊が私と離れてもちっとも寂しくないのが寂しいの」
「今取って付けたような言葉ですね」


冷ややかな視線にぞっとする。彼の前髪から覗く私と同じ黒真珠が遠く見えた。私はそのぼんやりとした輝きから目を離せなくて、かといって生理的な恐怖から逃れるわけもなく、中途半端に突っ立ったまま菊と対峙していた。菊は先程よりはまだ柔らかな雰囲気で、それでも一切の隙など見せず私に向かって微笑する。


「アーサーさんとアルフレッドさんのようになるのがお望みですか。それとも私と恋仲になって上司を裏切り密会でもしたいんですか」
「…そんなことは言ってない」
「そんなこと?貴女はこんな大事なことを些事で済ますつもりなんですね」
「話が噛み合ってないよ」


彼の怒ったような表情は久々に見た気がした。アーサーとアルの話を持ち出すのも彼らしくなかった。当時私は終始他人事だったけど、菊はどうだったのだろうか。


「貴方が私にとってどういう存在か、菊はどうせ知っているんでしょう?」
「…ええ」
「だったら、もう私で遊ぶのやめて。寂しいって思っちゃだめなの?会えなくなるわけじゃないから大丈夫?大丈夫じゃない、私は大丈夫じゃない…!」
「私はちっとも寂しくなんかないですし、貴女に寂しいと思われるのも嫌です。さんが上司や国のために私の元を離れたって、貴女を嫌いになるはずがありません。ずっと好きでいます」
「…ほんとに、遊ぶのやめてよ…!」


彼の「好き」が思ったより心に響く。現金な私は待ち望んでいたその言葉に背筋をぞくぞくさせて心の内では恍惚としていた。純粋に幸せだと言えなくても私にはもうこれでいいんじゃないか。そんな諦めに似たきりきりとした痛みが胸を締め付ける。やっぱり、私と離れても寂しくないんだ。アーサーはアルの独立記念日の度に吐血して苦しそう。もしかしたら今も泣いてしまうのかもしれない。泣き出しそうなのを堪え彼の胸に縋りついて私は小さく決意する。菊の影を追うのはもうやめよう。だからどうか、不幸が彼を襲いませんように。
これで最後だから。無様に足掻くのが得意な私は、顔をあげて目を閉じて、まるで魚のように丸く口を開けた。そこに降ってくるのが彼の唇だろうと舌だろうと罵声だろうと、何が来ようが構わない。どうせ叶わない恋なのだ。




2013.10.15
過去拍手御礼(2013.2.14-2013.10.15)