スタンディングオベーション
「ロンドンに家が欲しい」

経済誌を眺めていた俺は、テーブルの上で作った菓子を広げて紅茶を飲んでいたの言葉に顔を上げた。彼女の方はファッション誌か何かを閉じて端へ置くと本格的に菓子を食べることに集中し出す。俺は少し考える素振りをして暫く帰っていない故郷のことを思った。

「仕事はどうするんだ?それにロンドンは地価が高いし、そもそも日本と同じように土地は買えない」
「え、うん」
「現実的に考えて部屋を借りるしかないと思うが…ロンドンにこだわらないのなら、例えば郊外なら、古いが趣のある家があるかもしれないぞ」

するとがきょとんとした顔を晒す。そして何か納得したように僅かに笑うと紅茶を飲んだ。

「イギリスの家ってどこもかしこも可愛いよね」
「そうか?まあ、庭は世界一だと思うがな」
「それが当たり前だと分からないものよね」

アーサーもこっちに来たらと言われ、経済誌を手放して彼女の向かいに座る。初めて作ったらしい新しいマフィンはバターの油分で俺の食欲を誘っていた。立ち上がる彼女を制して紅茶のおかわりを作りにキッチンへ入り、水に戻ってしまったお湯を温め直す。その間にもはマフィンに手を伸ばした。

「あまり食い過ぎるな」
「アーサーの紅茶と一緒に食べるのが一番美味しいのよ」
「太って泣くのはお前だ」
「デリカシーのない男ね」

マフィンに齧りついたを横目にこの間買った茶葉の入った濃い色の缶を出してフィルムを剥がす。勿論祖国のもので、あちらに住んでいた時からの俺のお気に入りだ。そしてのお気に入りでもあり、これを出すと見て分かる程に機嫌が良くなる。

「その音と香りは。流石アーサー」
「お前のその感覚器官こそ流石だ。香りはともかく音で分かるのか」

軽口を叩きながら紅茶を用意していると、彼女は再び雑誌を開いてあるページをさっと眺めると俺の席にそれを置いた。紅茶のために持ち場を離れられない俺は何だという風な視線を送るが、彼女は曖昧に口元を緩めるだけで答えてくれない。そのページは遠目からでははっきりとは見えないが、ブラウンや赤、白といった色で埋まり、所々緑やピンクなども混じっている。俺はやはり紅茶を気にしつつも一つの答えに辿り着いた。あれは恐らく、俺の故郷の家だ。成程、だからロンドンに家が欲しいなんて言ったのか。そして、ああ、分かった。女性特有の、夢と理想と現実の境界がごちゃ混ぜになった中での希望。どうりで男の俺などには分からないはずだ。

「お前、そういうの好きだな」
「ヨーロッパの建築、って一言で表すと不快だろうけど、本当に好きなのよ。昔から。いつかこんな家に住みたいと思ってた」

彼女に限らず、女性はしばしば本当に成し遂げたいことなのか、はたまたただの夢の中の理想なのかよく分からない希望を口に出したりする。ロンドンに家が欲しい、だから金を貯めて実際に向こうに行ってみて部屋を探したいのだがどうすればいいか分からない、と、ロンドンに家が欲しい、こんな素敵な家に住めたら幸せだろう。この二つの似て非なる願望は、どちらもロンドンに家が欲しいの一文で済ますことができる。前者であれば、現実にするために具体的なアドバイスをすれば良い。だが、後者であれば、俺は彼女の夢にただ同意し寄り添わなければならない。夢を現実で壊してはならない。彼女が綺麗だと言えばそうだなと応えてやらねばならないし、こんな家に住みたいと言えばそこで飲む美味い紅茶と菓子を想像してそれはとても良いことだと相槌を打たなければならない。…は、多分後者だ。物件だの地価だのと俺が話をした時、不思議そうな顔をしていたからな。迂闊だった。俺は彼女の夢に土足で入り込んだも同じだ。

「好きになってくれて嬉しいよ」
「アーサーが?」
「自分の母国の何かでも、好きになってくれたら嬉しいだろ。それが自分の好きな相手なら尚更な」
「そう?うん、まあ、確かに、分からなくもないけど…」

彼女の希望がやっと分かった俺は少し前の自分の言動に後悔しながらも、今度はの夢に寄り添うように言葉を繋げた。それなのに彼女はちょっと複雑そうな顔をする。何だろう。俺のやり方はそんなにまずいのか。

「アーサーが変に鈍いのは今に始まったことじゃないしね。最初からこう言えば良かったんだわ」
「何だよ」
「私、ロンドンに住みたい」
「……それは、本気か?」
「勿論。しかも、アーサーと一緒にね」
「俺と?」
「駄目?日本での任期が終わったら私と別れて国へ戻るつもりだったの?悪いけどそんなことさせないわよ。アーサーが嫌と言っても別れてあげない」
「いや、馬鹿、お前……馬鹿か。お前は馬鹿だ。それはつまり、プロポーズってことかよ」
「…紳士の中では流行らない?図々しい女はやっぱり鬱陶しい?」

俺が絶句していると、赤い頬を隠すように彼女が雑誌をパタンと閉じる。

「懐古主義の紳士には、お気に召す告白じゃなかったみたいね」
「誰が懐古主義だよ」
「アーサーに決まってるでしょ!」

わけが分からない。俺はそんなに老けてねえよと笑いながら、の手を引いた。

「街中じゃなくてもいいから、可愛い家がいい」
「ああ、俺も広い庭が欲しい」
「受けてくれるの?」
「それ以外の返事があるのか?」

色づいた林檎の頬にキスすると、がキッチンへ逃げて行く。照れるなと言いつつ、俺も情けないツラを見せまいとテーブルを離れた。

スタンディングオベーション
2015.5.9
title:コペンハーゲンの庭で
material:HELIUM
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