07.スカイフィッシュを飼えたなら





薄く雲がかかっているものの、ロンドンにしては良い天気である。冷たい風の吹く通りを抜けて待ち合わせの場所へ向かうと既にアーサーが居た。私は時間を確認しつつ彼に近付く。


「九分前だ」
「細かいのね。それよりも待たせてごめんなさい。いつ着いたの?」
「俺も今着いたばかりだから気にするな」


彼は私の頭からつま先までの全部を視線でなぞった。勿論厭らしさなどは全く無かったけど、何となく気恥ずかしくなる。私は何か言われる前に先手を打った。


「流行には敏感じゃないのよ…どこか変?」
「いや、似合ってるよ。特に色が良いと思う。でもあんまり過信するなよ、俺には女性の服は分からないから。…だからって変だと言ってるわけではないからな。俺は良いと思ってるし……すまない、自分でも何言ってるのか…」
「大丈夫よ、言いたいことは大体分かった。ありがとう」


私はほっと胸を撫で下ろして自分のコーディネートを改めて見た。別に褒められたいと思ってはいなかったけど、実際に言われるとやはり嬉しい。心の中でエリザに感謝する。
それにアーサーの言動のパターンや感情の読み方が少しずつ分かってきた。根が優しい彼の言うことは、節々に棘があったとしても本当は怪我しない程度に丸くなっている。要はこちらの受け取り方次第で、これは多分、アーサーの性質を理解していないと難しいんだと思う。彼が感じたり考えたりして伝える時の真意は、例えば社交辞令で覆い隠せない程真っ直ぐな反面鋭い単語だったり、温かみのない事実の羅列だったりするので、きっと円滑な人間関係は生まれにくい。それでも嘘ばかり並べ立てるのではなく、ただ他人に誠実でいたいという性質が彼の中にはあった。私はそれを素晴らしいと思ったし、尊敬に値するとも思った。出来ることならその性質がこれからも彼の変わらない一部として残って欲しい。そして更に欲を言えば、そんな彼を見ていたい。
私がアーサーに対するもやもやとした気持ちを、エリザにそのまま伝えたら、それは恋だと言われた。彼女は自分の体験などを交えながらやたら説得力のある解説をしてきたけど、私は素直に頷けなかった。どうもしっくりこなかったのだ。


「ちょっと寄りたい店があるんだが」
「うん、行こう。アーサーの行きたいところならどこにでも行くわ」
「ああ…何つーか、良く出来た口説き文句だ」
「えっどういうこと?」
「確信犯じゃなければ、お前は神か何かだな」


彼は駅とは反対方向へ歩いていく。私は未だにこの国へ来たばかりの時や観光客のように辺りを見回しながら彼の後に続いた。物理的には世界中のどこでも同じはずなのにロンドンの空気はいつだって私の肺を熱で焦がしたし、古い建造物は目に反射して脳へ刷り込まれた。人々の口から溢れる音は母国のそれとは違うのに、鼓膜はさもこれが求めていた振動であるかのように震えて、私の口から出る音さえも骨に響いて鳴いた。きっと日本へ帰っても忘れないし、この感覚だけは、忘れたくない。泣き出してしまいそうな憧れの末は、崩壊に違いなかった。
アーサーの英語が分からないというよりは言葉の意味が分からなくて再度問うと、彼は私と歩調を合わせて穏やかに笑った。


「全部のせいだぞ」
「どうして」
「無自覚なお前が悪い」
「…よく分からないけど、私別に自分が全知全能だなんてこれっぽっちも思ってないわ。私は何も分かってないと感じることが多いし…ほら、無知の知と言うでしょ?私は謙虚に生きたいと思ってる」
「お前は今でも十分謙虚だ」


やや交通量の多い通りに出ると、アーサーが自然と車道側に移動して私を庇ってくれた。彼を見上げてお礼を言うと目を逸らしたので可笑しくなる。
あまり来たことのないエリアまで歩くと、大通りの一番目立つところに小さな店があった。アンティークな家の置物たちがショーウィンドーの向こうで見事に街を創り上げている。思わず見とれていると、アーサーが私を呼んだ。


「家の階段の側のコレクションの中のいくつかは、ここで買ったものなんだ」


店内には確かにアーサーの家のそれらをぎゅっと集めた雰囲気と、実際に小物がたくさんある。


「アーサー、これ」
「ん……お前にやったオルゴールに似てるな」


デザインはかなり近い。でも薔薇の位置や大きさが少し違った。アーサーがレジにいたお婆さんと何か会話し始めて、その間も私はガラスと木の棚を見て回った。


「遂にアーサーにも彼女が出来たんだねえ」


ロンドン・アイを模した置物を買おうとアーサーの方へ向かうと、にこやかに微笑んだお婆さんが予想外の爆弾を落としたので、私は驚いて何も話せなくなる。


「あまり彼女をからかわないでやってくれませんか」


アーサーは困ったように笑うと、近くの棚から大きめの置物を取るとレジに置いて、私の手からもロンドン・アイを奪って一緒に会計を済ませる。私は慌てて財布を出したけど既に遅く、アーサーはカードで全て終わらせていた。


「私が買うわ。その為に来たのよ」
「気持ちだけ貰っとくな。ほら」


紙袋に落ち着いたロンドン・アイを受け取ると、その様子を見ていたお婆さんがとても幸せそうに口を開いた。


「大事にしなさいね」
「はい。ここ、とっても素敵なお店ですね。また来ます」
「いやいや、貴女じゃなくて、アーサーに言ったんだよ。アーサー、その子を大事にしなさいね」
「…勿論」


どんな展開だろう。考えつつも私は冷静な判断などとうに出来なくなっていた。アーサーに声をかけられて一緒に店の外へ出る。待ち合わせが午後だったから、太陽は既に半分以上も傾いていた。


「あそこから街を見るのが好きなんだ」


彼の指差した先はここから少し遠く、周りには高い建物が並んだ、一見ロンドンではよく見かける普通の通りだった。黙る私に気を遣ったのか、それとも私の胸の内が彼に伝播したのか、微妙な距離を保ちながら私達は沈黙を貫いた。この空気が耐えられなかったので、私はただ彼の歩く方へ一緒に急いだ。それに早くしないと太陽が沈んでしまう。私の中で妙な焦りが生まれた。
自動車が私達の横を走っていった。私は留学当初、イギリスの自動車が左側を通行している、当たり前の光景を見てとてもとても安心した。日本と同じだからだ。そんな些細な、無機質なことにさえ温かみを感じた。私は心細かった。全てが恵まれていたけれど、疎外感はやはりあった。陶酔している英国とオスカー・ワイルドが近くに存在していても、本能的な帰属意識はそこにはない。手が届くかもしれない場所にあるというのは、眩しくて目が痛くて、何も見えなかった。助けてくれる人達が、優しい人達が、すぐ側にいたというのに。
アーサーが立ち止まってくるりと振り返る。


「丁度、この辺りだ」
「アーサー、人が来てる」


小さな男の子とその母親に道を譲り、他に人が来ないことを確認してから、それでもちょっと端に寄って、二人で街を眺めた。素敵にくすんだ色の街が夕暮れの太陽に照らされて輝きを増していた。


「いつか連れて来るつもりだったんだが、まさかお前の方から誘われるとは思ってなかった。結構良いもんだろ、ロンドンも」
「ロンドンが素晴らしいことなんて、日本に居た時から知ってたわよ。サロメを知る前からね」
「好きなのか、サロメ」
「うん」
「I, I saw thee, Jokanaan, and I loved thee. Oh, how I loved thee! I loved thee yet, Jokanaan, I love thee only....」
「役者みたいね」
「それなら俺はサロメにはなれないな」
「女の役も案外似合うかもしれないわよ?」
「どんなに愛おしくてもヨカナーンの首は落とせねえよ」
「それは…確かに」
「お前も、サロメにはなれない。優しいからな」


胸を打たれた。私はサロメにはなれない。


「...Ah, Jokanaan, Jokanaan, thou wert the only man that I have loved」
「俺はヨカナーンじゃない」
「…知ってるわ」
「O, how this spring of love resembleth. The uncertain glory of an April day」
「それは、シェイクスピアでしょ」


彼が自然な動作で私の手に触れた。ごつごつした男の人の手は遠慮がちでそれ以上はしてこない。私はどうしていいか分からずに、だけど気持ちに応えたくて、ほんの少しだけ彼の方へ寄った。太陽が息を殺して消えていき、同時に街灯がその光を緩やかに強めていく。夕暮れが完全に去ってから、遂に彼が私の手を引いて抱き締めた。




07.スカイフィッシュを飼えたなら




2014.12.30
title:LUCY28