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空の色を編み込む
長い長い講義を終えて、私は珍しくすぐさま携帯をバッグから取り出した。そのまま静かに電話帳から彼の名前を出して、少し眺めてから削除する。まるでとても重要な任務の遂行に成功したかのように安堵の溜め息を吐き、コートを羽織って教室を出た。 空が日に日に赤くなり始める時間を早めていることに気付くくらいには私は冷静だった。何度か噂に聞いていた、周りが見えなくなるといったような盲目的な恋を、やはりほんの少し期待していたところ私も結局は女で、なかなか訪れないそれを健気に待っていた。今になって考えてみれば本当に馬鹿馬鹿しい。別に、あの人が初めてだったわけではないのだ。気付こうと思えば気付けたし、理解しようと思えば理解できた。それを怠ったのは、多くの人が一度は持つであろう感情を、自分も人並みには得ることができると思ったから。 正門を出て駅まで歩く道は平坦で、昔からの建物はちらほらあるけど人通りが少ない。加えてもうすぐ夜が来てしまう。今日は金曜日だから駅付近は大分賑わっているだろうけど、明日からの休日に備えてか大学生はほとんど早い時間に自宅や寮などに帰っているか、足早に駅の方に集まっている。金曜日の帰りは、この季節だと余計に寂しい。 「そんなに上ばっか見てると転ぶよ」 「……あ、ルー君」 びっくりした。彼に指摘されたように、上ばかり見ていて全然気が付かなかった。小さなお店の入口近くに気休め程度に置かれている色褪せたベンチに、ルー君が座っている。こんな、楽しくなさそうな彼の顔は初めて見た。 「何してるの?」 「を待ってた」 「私?どうして?」 「色々話したいことがあったんだよ」 心なしか、少し怒っているようにも見える。寒さに晒されて赤くなったルー君のほっぺが私の気持ちを和らげてくれた。 彼も駅の方へ行くものだと思ったけど、彼は私に視線を貼り付けたまま身体は動かそうとしない。ベンチはそんなに大きくないし、古いから私が座ったら壊れそうで、本当に何も出来なかった。ただ彼の前で不自然に突っ立っているだけだ。 「コーヒー好き?」 「え?」 「さっきここの店の人がくれたんだよ。人待ってるって言ったらおいらの分との分、二つくれて」 「そうなんだ。なら貰うわ、ありがとう」 マグカップか紙コップが来ると思っていた私にルー君は普通の缶コーヒーを渡す。…私がいつ来るかも分からないのにそんなカップ系で出すわけないじゃない。自分の考えの至らなさに恥ずかしくなった。それを誤魔化すかのように缶の表面を撫でていると、ふいにルー君が口を開く。 「、彼氏と別れたってほんと?」 指の動きがぴたりと止まる。彼氏、というワードに反応した私の脳が、最近の出来事を無遠慮に流す。 三日前に、付き合って丁度半年の彼氏と別れた。特にマンネリしていたわけでもない、喧嘩もほとんどしたこともない、友達からも羨ましがられるくらい仲が良かった。だから、まさか突然別れを告げられるなんて信じられなかった。嫌いになったわけじゃない、でも好きでもない。理由を問いただした時に、抑揚のない声で言われたことだ。 『お前といても楽しくないってか、なんか付き合ってる感じしないんだよね。友達みたいでさ。うん。まあ、お前と議論するのは好きだよ今も。でもそれは彼女には求めてない』 彼がガールフレンドに求めていたのは、おしとやかで男性の後ろを黙って着いていくような、典型的な大和撫子像だった。私はっぱり割とものを言う方だから彼の好みではないのだろう。人の異性の好みなんてそれこそ十人十色で、理想に近い人を恋人にしたいと思うのは何ら不思議ではない。だから、理想の食い違いはしょうがない。彼の言うことも分からなくもない。ただ悔しくて、最後には結局素直になれなかったけど、尾を引くよりはマシだ。 「うん、別れたよ」 「そっか」 「…話って、それだけ?」 「そうだよ。心配してたんだ」 ギシ、とベンチをしならせて立ち上がったルー君は、手袋を外して私の両頬を優しく挟んだ。 「今日はこうやっても怒んないね」 「ノーメイクだからね今日は。…いつもちゃんとメイクしてるでしょ」 「うん、目元とか唇がキラキラしてるもんね」 「何その言い方」 「褒めたんだよー」 でも、そうじゃないんだけどねー。彼は声に出して小さく笑うと、柔らかく呟いた。 「帰ろうか」 結局飲まなかった缶コーヒーをバッグにしまって閑散とした道を二人で歩いていると、ふいにルー君が自分の手袋を私に寄越した。冷たい風に晒される私の手を気遣ってくれるらしい。少し考えてからその好意をありがたく受け取って左手にはめると、彼は満足そうに笑って私の右手を握る。そしてそのまま自分のコートのポケットに入れた。流石にそこまで優しくしてもらうのは申し訳ないので、やんわりと声をかける。 「ルー君」 「いいでしょ?今フリーなんだし」 「そうだけど、」 「ちなみにおいらも彼女いないから大丈夫だよ」 コートのポケットの中で、まるで恋人みたいに指を絡める。そんなことをされるのは久々で、人肌がひどく心地いい。ふられた女友達にする行為としては優しすぎる。ルー君は、優しすぎる。 「…ごめんね」 「何が?」 「気を遣ってくれて、優しくしてくれてありがとう」 そこまで言って、私は密かに一人唇を噛み締める。恥ずかしいけど、下を向かないように。涙が溢れないように。 「何で謝るの」 優しく声を出して笑う彼の一言に、あっけなく崩壊した涙腺に動揺する。幸い並んで歩いているから顔を見られてない。それを必死に隠しながら、優しいルー君にもう少しだけ甘えたくなってしまう。 勝手に溢れた涙と同じように、心に引っ掛かっていたものが口から溢れた。 「…ルー君」 「ん?」 「私といて、楽しい…?」 声が震えないようにするのは難しかった。多分泣いていることは気付かれてしまっただろう。 ルー君が何か言おうと息を吸ったのが分かる。でもその先は言葉ではなかった。ルー君は繋いでいた私の手を急に離して解放すると、そのまま私を抱き締めた。 抱き締められる瞬間に見えた、彼の切なそうな顔が私の涙腺を更に刺激した。 「楽しいよ」 「……うん」 「楽しいし、落ち着く。それからの考え方は品があるだけじゃなく客観的で考え抜かれてて素敵だよ」 「…うん、」 「でも、結構我慢しちゃってるよね。我慢なんかしちゃ駄目だよ。思ってること、言っていいんだよ」 返事の変わりに彼のコートを強く握る。声が出せなかった。代わりに涙が洪水みたいに流れた。裸の右手に冷たい風が当たっているのに、全然寒くなかった。 短く息を吸って、吐いて、吸って、吸って、吸って、過呼吸で何だか分からなくなってきた頃、ルー君が私の背中を優しく撫でる。息がしやすいように抱き締める力も緩めてくれた。 ルー君の後ろで太陽がゆっくり地平線に消えて行く。涙の張った瞳でそれをぼんやり眺めていると、彼が唐突に口を開いた。 「謝らなきゃいけないのは、おいらの方なんだ」 耳元でそれこそ申し訳なさそうに呟いた彼の言葉の意味を、私は考える。 「好きになって、ごめんね」 目の縁から、新しい涙が溢れた。謝っているのに、優しくて、あたたかい。 別れて傷心の私に好意を告げることに対する謝罪なんて、いらないわ。ずっとルー君の優しさだけが私の心に降り積もればいい。 まだまだ震える唇で精一杯伝えたいと思った。 「どうして、謝るの」
2014.1.31
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