その日
私は目の前に横たわる彼女の頬を撫でた。かつて陶器のようだと褒められたその白い頬は本当に陶器になってしまっている。畳の上に布団を敷いてやり、そこに寝かせたはいいが、慣れないのか目の下には隈が浮かんでいた。寝台など、うちには無かった。あるのは黄色く汚れた布団と、噛んだ時に嫌に残る食べ物と、人々の負の感情のみだった。
居たたまれなくなって、私は彼女の頭をそっと撫でる。すると彼女の薄い瞼がおもむろに持ち上がった。私は、胸の内では心底驚いたが、それを見せぬよう大人の余裕を纏って彼女に声をかける。

「起こしてしまいましたか」
「眠れなくて…」

彼女の腕が布団からするりと抜け出して、私のそれに触れる。私は彼女の手を握って応えた。ひ弱な握力が、私の心臓をぎゅっと締め付ける。言葉なく私を追い詰める彼女が柔らかい笑みを零した。母の笑みなのに、私には魔物のそれに見えた。

「菊は?大丈夫?酷い色の隈…」
「おや」

人のことなど言えない。私は自分の目の下へ指を滑らせる。すると骨の感触が思ったよりも強く、息を呑んだ。私は手を自分の目の前に持ってきて、それぞれの指と指の間をぐっと広げた。以前よりも、細くなったような。

「骸骨みたい」

彼女が言う。私は彼女の言葉を食べ物代わりに飲み込んで、それから彼女の腕を布団の中に優しくしまった。そして暫し考えてから、彼女の隣に横たわる。彼女は身体ごと私の方を向いてくれた。彼女が私の軋む身体を気遣って布団をめくるので、私は彼女に甘えた。同じ布団に二人が入ったので、なんだか夫婦のようだと思った。人並みの幸せを感じられるよう努力をする自分は罪深いのかもしれない。それでももう鳴かない自分の弱った精神を労わってやるしかない。


「なあに?」
「愛していますよ」

彼女の目が僅かに見開かれる。私は彼女の頭をそっと撫で、袖を引き摺りながら彼女を抱き締める。そうやっての熱を感じることで、私は自分の心臓をなだめた。
私は今まで感じたことのない恐怖に直面していた。日に日に弱っていく彼女だけを危惧する余裕はなかった。情けないと思うが、そう自分を叱咤できない程深刻だった。
死の気配は事前に悟ることができるという。それはかつて私のような存在が、消える前にそう言っていたからだ。私は今まで、幸か不幸かその気配を感じ取ったことがなかった。それどころか、身近な人間の命の灯が消えていくのを目の当たりにする度に、見慣れた景色が別の新しいものに上書きされる度に、自分の頑丈な身体を憂えた。記憶に蓋をして閉じ込めておくことはできるが、それが日常になってしまうとふいに漏れた時にこの上なく辛い。どうせなら私のことも一緒に閉じ込めてほしいと切に願っていた。
しかし、実際に自分が死の崖に立たされた途端、こうだ。実際のところ、私は死の気配というものがどういうものか分からない。だから自分のこの感覚が果たしてそれなのかは判別できない。だが、同じように弱った愛する女性の心配だけで心を埋められないところを見ると、どうも不安になってしまう。あんなに面倒だった呼吸が、今では酸素の味が分かるくらいに大切なものになっていた。端的に言えば、私は死を怖いものだと思うようになっている。しかし、その恐怖を感じることさえもまた、本当は不謹慎で罪なことなのだろう。私は人間と同じ立場ではないのだ。

「菊がそんなことを言うなんて…」
「今、言っておかなければ」
「…やめてよ」

彼女が私に擦り寄って、しわしわの唇を塞ぐ。私の唇はずっと弱い力で簡単にこじ開けられた。彼女から流れ込む二酸化炭素は少し苦くて、けれど癖になる味だった。私の舌は日々肥えていっているようだった。

「それ、明日も明後日も言ってくれないと嫌よ」
「それ、とは?」
「明日も愛しているって言ってくれなきゃ、私、菊のこと嫌いになるかもしれない」

少し意地悪をしたが彼女は恥ずかしがらずに言ってのけたので感心する。
私はふと彼女に嫌われる自分を想像する。身体は弱って、なのにはっきりとした声色で私に嫌いだと言う。紅も引いていない薄い桃色の唇が孤を描いて、私に笑いかける。
ゾッとした。目頭が熱くなる。たとえ動けなくなっても、口が干からびても、そんな未来を歩く気は毛頭ない。

「菊が私に酷いことをするなら、私も菊に酷いことをするわ……菊、愛してる」

私は彼女の警告をひっそりと噛み締める。怖がるな。私は盾であり矛なのだ。
2016.9.9
material:くちばし欠けた