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紳士淑女
私には未知の世界ではあるものの、綺麗なものを綺麗だと思える、そんな人並みの感覚はあったので、彼の趣味にはほとんど口出ししたことがない。彼は演奏中に何かそれを中断させてしまうようなことが起きると、殊更不機嫌になる。素人の私にでも、苛々でそのものの精度が落ちているのが分かるのだ。 しかし今日は、私は息すら殺してそっと部屋の外から見ていたし、車の音が聞こえるとか、子供たちの笑い声とか、そういった雑音が無いというのに、彼は曲の途中で指を止めて、溜め息を吐いた。その背中がとても悲しそうに見えた。 「……、」 もう止めにしようと思ったらしい彼が振り返り、そこでやはり初めて私の存在に気付いたようだった。 「…お茶にしましょうか」 彼の覇気の無い声に私は頷く。 楽譜を置いてキッチンへ入る彼の後に続いた。慣れた手付きで湯を沸かし、私の紅茶と自分のコーヒーの準備をする。 私が冷蔵庫からトルテを出して皿の上に準備する。フォークも二つ用意して、彼より先にキッチンを出た。 湯を沸かすだけでは流石に何かが爆発するようなこともなく、彼は穏やかに帰ってきた。 「美味しそう…」 「貴女、随分楽しみ待っていましたもんね」 「ローデリヒのトルテはいつも美味しいもの」 まずトルテを一口食べる。程よい甘さに満足し、次に紅茶を飲む。口の中を紅茶色にして温めて、再びトルテを食べる。私はローデリヒの作ったトルテを食べる度に、こんな順序をいつの間にか修得していた。ただ単にこう食べるのが好きなだけなのだが。 逆に彼は、私の観察した限りでは、毎回様々な食べ方をする。飲み物だって毎回違い、大抵はコーヒーだけど、たまに私と同じ紅茶にしたりする。 「どうですか?」 「美味しいよ」 「そうですか」 「…ねぇ、どうして元気ないの?」 私はトルテの甘さを口の中に残したまま訊いた。彼は特に表情も変えずに、ただ淡々と答える。貴女に指摘される程、私は目に見えて落ちていますか。 「見ていて心配になるわ」 「…こんなことを貴女に言うのもどうかと思うのですが」 「いいわよ、何でも言って」 「手が、荒れているんです」 悩ましげにそう呟くローデリヒが美しい。まるで貴婦人の溜息のようだった。女々しいお悩みを抱えていらっしゃる彼のマグカップを掴む手を見ると、確かに少し荒れているようではあった。 でもまさか、ローデリヒがこんなことでアンニュイになるなんて。もっと精神的な何かだと思っていた。繊細な心の糸は皮膚の不調にも敏感なのだろうか。 「貴女、今失礼なことを考えているでしょう」 「例えば?」 「考えているんですか。このお馬鹿さん」 可愛いと思っていることは内緒にしよう。 私は自分の荷物のポーチの中から、ベージュのハンドクリームを取り出して彼の前に置く。彼は首を傾げそれをじっと見つめている。そこで私は思い付いて、一度は置いたハンドクリームを持って彼の手を引いた。 ソファーに座るよう促して、私はその彼の目の前に跪くような形で向き合う。 「自分でやっておいてなんだけど、これ結構良くないよね」 「何がです」 「腰に変な感覚が走るなあと思って」 「…少しは恥を知ったらどうですか」 ローデリヒの頬が僅かに赤らむのを私は見逃さない。一見綺麗で純粋に見える彼も、一線などとうの昔に越えている。私ではない女と、だけど。長く生きていくには、ピアノだけでは娯楽として足りない。私たちみたいな存在には途方とも思える時間を、どうにか有意義に過ごしたいと考えてしまう気持ちはよく分かる。それに私だって、初めてはローデリヒじゃなかった。だけどそんなこと一度だって気にしたことはない。初めてが誰かなんて、私たちにとってはくだらない話題だと思っている。ヴァージンを捧げるなどと言われた暁には、私は腹を抱えて笑ってしまうだろう。 しかし人間というものは貪欲且つ頭が良いもので、性行為を愛し合うという言葉を使って楽しめるように出来ている。これは、男が好む体位の一つらしい。 「ローデリヒだって、私がしてあげるよって言ったら、喜んで力抜くでしょう?私の前で猫被るのはやめてよ。生憎、今はそんなことしないけどね」 「全く、いつになれば貴女は淑女になるのでしょうね」 「舐めないで。私は立派な女よ。行儀よくご飯を食べられるし、座る時は足を閉じるし、経済の話だってする。きちんと自分に与えられた仕事をこなせるし、何より夜になれば貴方の相手が出来る。これ以上何を望むのよ」 「敢えて言うなら、お淑やかな面でしょうか」 「時代遅れの女は男に都合よく使われて死んでいくだけよ」 私はやや強引に彼の手を引っ張り彼の膝の上に乗せると、早速ハンドクリームの蓋を開けて中身を出す。優しいにおいが漂い、それに満足しつつ彼のかさかさした手に擦り込んでいく。意外と男らしくごつごつした手は、けれど酷く華奢に感じられた。それにしても長い指だ。これであの美しい音色を奏でているという事実に妙に納得する。 「ところで、手が荒れていることがそんなに気に食わないことだったの?」 「何となく、鍵盤を滑る時に違和感を覚えたので」 そんなことが分かるものなのか。ローデリヒが繊細なだけだと思ったけど、アーティストの感覚など私には理解できないのでやめた。それに、何だか彼の矜持を傷付ける気がした。 「でもどうしてこんなにかさかさしているのかしら。水仕事をしているわけでもないのに」 彼の指が、私の動きに合わせて揺れる。ほとんどされるがままなローデリヒが溜息を吐いた。やはり貴婦人のようだ。 「さあ…?」 彼の細められた瞳は私とハンドクリームの付いた自分の手を捉えている。 「それを塗り続けていれば治りますか?」 「多分。少しは良くなるんじゃない?」 「では、これから暫くはよろしくお願いしますね、」 彼が口元を漸く緩めた。両手にムラなく塗り終えると彼は私の額にキスをして、冷めたコーヒーを片付けに行った。 私は食べかけのトルテを再び口に運ぶ。 「随分と静かになりましたね」 「私は淑女だから」 「私の前で猫を被るのはおやめなさい」 言いながら、ローデリヒは笑いを堪えていた。
2014.9.7
お茶会にて:墺とハンドクリームプレイ 楽しかったです。ありがとうございました! |