性からすくう
性からすくう
2019.11.4
material:Pixabay
彼女の手荷物は存外に軽く、その理由を問う前に「一泊しかできなくなっちゃったの」と申し訳なさそうな回答をもらった。仕事が入ってしまったらしい。そっか、残念だなあ。心に浮かぶ前に、そんな言葉が口から出た。本来なら純度100%の慈しみからできているはずのそれは、何度も使い古したせいで唇が型を覚えてしまい、温もりがなくても簡単に音を出すことができる。されどこれは誰のせいでもないし、愛がすり減ったわけでもない。

「夏になったら代休貰うから、会おうね」

そう遠くない未来にも、僕達二人の時間が訪れることは最早決定事項だ。仮に時間が取れなくとも作り出すものである。今日みたいに。
荷物を寝室のベッドサイドに置くと、上着を脱いだの身体を引き寄せて抱き締める。もう身体は大人で、日々僅かな変動はあってもこれ以上成長することはない。国家故に長く永く変わらないその定まった形が、僕の腕の中に納まってぴったりと合わさった。ただの抱擁が胸の辺りをざわつかせる。ずっとこうやって留めておけたらいいのに、と淡くありきたりな願いを口の中ですり潰した。彼女の骨が僕の骨と複雑に噛み合う。それはさながら歯車のようだ。

「体型、全然変わんないね」

も似たようなことを考えていたらしい。きっかり噛み合う骨と骨とを、もう隙間も残っていないのにさらに密着するよう押し付ける。皮越しに骨がぶつかり合い、かりかりと骨が削れる感覚に身震いした。

「会いたかったよ」

滑らかに、確かな情を持って、僕の情が彼女に言葉をかける。会いたかったよ、本当に。
耳の側で笑ったの湿った吐息が波紋となって耳を食む心地にくらくらした。脳みそに伝播して痺れる。邪な期待が身体の芯からじゅわっと噴き出した。ああ、だめなのにな。

「…今から?」
「ごめんね。ごめんね
「それは、一体何に対する謝罪なのかしら」

答えずに女の唇へ噛み付けば彼女の指が僕の背を掴んだ。
性欲が親愛を塗り潰す様は圧倒的だった。子孫を残せもしないのに国家に生殖機能なぞ不要だろうと呆れる傍ら、一度味を知ってしまえば僕達みたいな神造の器もアダムとイヴに成り下がる。それを普段は理性が封じ込めている気になっているのだから生物とは滑稽だ。息も絶え絶えに互いを求めれば呼吸がしづらくなり身体が揺れるが、幸いベッドはすぐそこにある。の柔らかい髪の毛に手を突っ込んで緩くかき混ぜつつ、二人とも寝台へ倒れた。心臓が喜びと興奮で飛び跳ねている。早く食べてしまいたい。僕の下で誘惑する妖艶な彼女に思わず舌打ちした。



久々の逢瀬で長くなった挨拶を終えると途端に虚無感が押し寄せる。所謂賢者タイムというやつだ。時計の針は、彼女がうちの敷居を跨いだ時間から随分進んでいる。ただでさえ陽の傾く時刻が早まっているのに、貴重な日中の暖かい時間を犠牲にしてしまった。それでも僕の勝手で貪ったに情けない姿を見せたくなくて、後処理をしたらすぐに気怠い空気ごと彼女を引き込み布団を被った。
火照りは大分引いており、行為後特有の人肌のにおいはまだ鼻腔に残っているが、まもなく判別できなくなるだろう。は既に眠りに落ちていて安らかな寝息を立てている。考えてみれば彼女の家からはここまではそれなりに長旅であるはずなのに、ほとんど強引に手を伸ばしたことで無理をさせてしまったに違いない。行為前とは別の種類の罪悪感から、彼女の頭を撫でた。


「ティノ、知らない人みたいだったね」

事後、僕の腕の中でが呟いた。果たしてどんな返答が正解か分からず、僕は言葉を濁した。
行為は実にありきたりで、感じ慣れた熱を孕み、故に長年愛してきた彼女との繋がりをより濃く認識できる最高の時間だった。僕はのことが好きだ。そこは間違いないし、揺るがない。彼女以外の誰かに浮ついた気持ちも持っていない。

『夏になったら代休貰うから、会おうね』

今は秋で、次の夏は約一年後だが、その間に横たわる期間は僕達であれば瞬く間に食い潰すことのできる年月だ。だから僕は平気だ。きっと彼女も同じだ。いつ会えるか見当もつかなかった昔に比べたら、本当に幸福な時代だった。

『体型、全然変わんないね』

ある程度伸び切ってしまったら外見的な成長は止まる。僕達は大人の器を獲得して漸く肩の荷が下りる。自分以外の国と会う度に、自分と同じくほとんど変容のない器にほっと安堵するのだ。良かった、僕達は違うね、と。
それでも、久々に会った恋人を抱き締めて、血肉と皮に隠された互いの骨を所定の位置で噛み合わせ、それらが歯車のように寸分の狂いもなくぴったり嵌まらないと不安で仕方がない。髪や爪は切るしかないし、脂肪は増減する。だから骨はとても優秀な指標だ。僕はを愛しているのに、大人らしからぬ臆病な気質をもって彼女に不安をぶちまけてしまう。その割には肉欲に逆らえないので、矛盾も甚だしいのだが。

『ティノ、知らない人みたいだったね』

言葉を濁す裏で、せり上がる焦燥を押し留めていた。何故なら自覚があったからだ。獣じみた衝動に任せ彼女に跨り、ほんのり赤く染まる裸体をあらゆる方法で犯しながらどこか冷めた心地でいた。彼女が僕の前でこんな姿になってくれるのはあと何回だろうか。彼女が僕に見向きもしなくなる日はいつ訪れるのか。僕はどのタイミングで、彼女への情を空にするのだろうか。複数の懸念に意識を傾けつつ事に及んでいれば、普段と異なる扱いを無意識にしていた可能性もある。
これだから肉は嫌なんだ。温度によって、隠したいところまで悟られる。彼女を抱き締め、溝に沿って骨と骨がきっかり噛み合った時に満足したかった。進化した生き物らしく、理性的で客観的な事実から彼女を知覚したかった。
自分にとって彼女は唯一無二だと断言できるからこそ、そうでなくなってしまった瞬間の到来が何よりも恐ろしい。自殺もできない身体で、僕は不定の未来に怯えている。