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「はしたない」 サンダルを庭に飛ばして、スカートを捲り上げた。家の中以外に影を作る場所はない。かといって室内が快適というわけでもなく、まるで蒸されているように暑いのは分かり切っていたので、入口からそのまま風を求めて縁側に来たけど生ぬるい空気がどんと居座っているだけだった。 「暑い。扇風機もないなんて」 「そんなものなくたって、工夫次第でどうにかなりますから」 そう言いながら、ぱたぱたうちわで自身を扇ぐ菊の額から汗が落ちて、紺色の着物に小さな染みを作った。 可愛い風鈴がか弱い音を出して、涼しくなった気分になる。 夏、菊の家に来る時はいつも覚悟しなければいけない。エアコンや扇風機といった夏を乗り切るための機械が、彼の家には一台も存在しないからだ。お金がない、と彼は言う。電気代がばかにならない、とも。それが全部嘘だということを、私は知っている。 夏は嫌いじゃないけれど真夏の菊の家は好きになれない。私は夏になると嫌がる体を引きずって菊の家へ行く。イヴァンなんかは、たとえ仕事であっても夏に日本へ行くのを敬遠しているから「は物好きなんだね」と言って苦笑する。私もそう思う。だけど自分ではきっと止められない。何百年生きていても、どんなに頑張っても人間になれないのをよく理解していても、私はきっと人間と同じ感情をすべて棄て切れない。その証拠に私は菊を好きになった。私が誰かを好きになるはずがないという持論が呆気なく思い込みに変わったのは最近の話ではない。フランシスあたりは女をとっかえひっかえ、まるで人間の男としての人生を謳歌しているようで昔は馬鹿馬鹿しかったけれど、今は立派な私の師である。鈍感な菊をその気にさせたくて珍しく奮起する私をアーサーが皮肉って、怒る私に女物の高価な香水を買ってくれた。何だかんだ彼も応援してくれるらしい。 イヴァンやフランシスやアーサー以外にも私のことは知れ渡り、ついにもう菊しか知らない人はいないんじゃないかと誰もが考え出した今、私は彼らの手厚い支援を身につけて真夏の菊の家を訪れた。それなのに鈍感な菊はやはり何にも気付かず、疑心の一つも持たず、「よくこんな蒸し暑い所へいらっしゃいましたねぇ。何もありませんが、それでもよろしければどうぞ」と私を家の中へ入れたのだ。 菊からうちわを奪って半ばやけくそに扇ぐ。でも全然涼しくならない。汗で肌にぺったり貼りついたスカートが鬱陶しい。菊はうちわを取られたのに大して興味も示さず、ぼんやりとよく分からない方向を眺めている。流石の彼も大分まいっているらしい。私はもっとまいっている。期待を裏切られたかのようなショックに暑さが追い討ちをかける。「何もありませんが」彼の言う通り実質何も無いのだ。菊お得意の謙遜ではないのだ。私の機嫌はますます悪くなる。なんて可愛くない女だ。泣きたくなった。 「アイスないの?」 「麦茶なら冷蔵庫にありますよ」 「じゃあそれもらうね」 立ち上がろうとすると菊が私の肩をとんと軽く叩いて、静かに台所の方へ消えた。 太陽が少し移動して、私の座っているところにも陽が差すようになっても菊は帰ってこなかった。もしかして暑さで倒れているかもしれないと急に不安になって、生ぬるくてひどく不快な空気が籠もる室内へと入った。歩みを進めていくにつれて額や首を汗が流れていく。それに比例して動悸が激しくなる。 恐ろしいことに台所には菊がいなかった。誰かがいた形跡すらなかった。空気の流れが特に悪いこの空間で私は泣き崩れた。今日菊の家に来てから色々考えすぎて頭にのぼっていた血液が一気に足の方へ解放された気がして何も止まらなかった。嗚咽混じりに彼の名前を紡いだ。激しく動揺する心とは反対に思考はいつも以上に冷静で、その事実が心と思考の溝をますます広めた。菊がいない。菊が、いない。 「さん」 後ろから彼の声が聞こえて振り返る。何を泣いているんですか。だって、菊がいなかったから。すみません、麦茶、切らしてまして。 「行くなら一言言ってよ…!」 「すみません。でも、ついでにアイスも買ってきましたよ」 涙でぐちゃぐちゃの私の顔を笑って、菊はアイスの入った袋を見せた。 「美味しいですか」 「おいしい」 「溶けていませんか」 「冷たくておいしい」 「それはよかった」 気が付いたらもう西日が射していた。泣いたせいでメイクが崩れたので洗面所を借りた。今の私はすっぴんである。正直いただけない。けれどメイクが剥がれた自分の顔はもっといただけないので仕方なく。あまりにも無様だからアイスを食べたら帰ろうと思った。 そんな時、彼は麦茶を一口飲んで、まるで独り言のように爆弾を投下した。 「貴女、夏は私の家にわざわざ来ないで、アルフレッドさんのお家にでも行ったらどうですか。あの人のお家なら貴女の望む冷房がいくらでもあるでしょうし」 ばっと菊の方を向いたら彼が変な顔をしたから、多分私も変な顔をしていたんだと思う。さっきの無様な私の姿を見て尚、そんなことが言えるのかと信じられなかった。私が本当に欲しいのは無論冷房でもなんでもない。蒸し暑い日本の夏、扇風機もない菊の家に私が何故訪れるのか、彼は一度も考えたことはないのだろうか。あんなに泣いても、彼には響かなかったということなのだろうか。わけが分からなくなってほとんど突発的に口から出たのは品がないにも程がある本心だった。 「空気は読めるくせに人の心は読めないのね。だからいつもアルに押されるのよ。ついでに女の心もね。私を冷房のきいたアルの家にでも送れば?そうしたら私死んでやるわ」 アイスの棒を歯でバキリと折った。かろうじて棒に残っていたアイスが服の上に落ちて、陽でてらてらと光る。 「すみません」 「何が」 「気が付かなくて、すみません」 「何に」 「さんは、アルフレッドさんをお慕いしているのだと思っていました」 「…ばか。菊ってほんと、なんにも知らないんだから。昔からそうよ、知り合って何世紀経ってると思ってるの」 「そうですね…私は愚かでした」 言いつつも、それから菊の口元は緩みっぱなしだった。 恥ずかしくて彼の顔を見ていられない。そうだと悟られないように私はアイスの棒を口内で遊んでいた。 「さん、こちらへ」 彼の方へ距離を詰めたら、菊は私のスカートの裾に落ちたアイスを指で掬って舐めた。 「こういう仲に、なるのでしょう?」 「…意味が分からないわ」 「確認ですよ。糠喜びは嫌じゃないですか、お互いに」 「抽象的すぎるって言ったのよ」 「では、性交しましょう」 「はしたない」 菊の堅い手がスカートを握る。 陽が静かな音を立てて落ちた。
囀れ
2012.10.30
(元話 killing letter 大幅な加筆・修正済) |