想いは滲まない
一つ何かを達成してしまえばそれ以降のミッションは案外すんなりとこなせるものだ。あんなに怖がっていた携帯も、ブル君の元へ来て以来ずっとスーツケースの中に仕舞ったままだったけれど、漸く触ることができた。しかしずっと放置していたので久々に手にしたそれは冷たかった。充電器にセットしてコンセントに差し込むと赤いランプが点く。何だか懐かしい。

「すげえ進歩だな」

ブル君が感心している。ちっともすごくないけど、怯えていたこの間までと比べたらまあ、随分と心が自由になった。気にしすぎ、自意識過剰と簡単に片付けてしまえばそれまでだが、私の行動を制限していたのは事実だ。この調子で徐々にかつての私に戻ればいい。そうなるようにもっと頑張らねば。

「ブル君が貰ったチケット、無駄にしなくて済みそう」

そう言うと嬉しそうにはにかんだブル君の笑顔に、きゅんとしてしまう。そのチケットとはブル君が会社の同僚から譲ってもらったテーマパークのペアチケットのことで、意外とそういうところが好きなブル君とは、付き合い始めた高校生の頃から時々二人で行っている。子供のようにはしゃぐ彼に手を引かれて歩き回るのは色んな意味で大変ではあるが、心の底から楽しんでいるブル君を見ることでこちらまで幸せを分けてもらえるので全然苦ではなかった。それに、道の途中ではっと我に返ったブル君が振り返ってすまなそうにしている様子や私を労わってくれる顔を見るのも好きだ。大事にされているのを、彼に悟られず実感できる気がして。
あの人を宛がわれてからはブル君と会う時間がめっきり減って、遊びに行くどころじゃなかった。彼はずっと私の味方でいてくれたからその恩返しのために、そして何より昔の私達に戻るために、彼の望むことをしてあげられるように。一人で食料品を買いに行ったことは元に戻るためのリハビリのスタートだった。大丈夫だ。私はやれる。
日程はブル君の仕事がもう少し落ち着いてから考えようということになっているので、それまでに他にやれることがあればやっておこうと気合いを入れる私を、ブル君がどんな目で、どんな心境で見ていたかを、この時はまだ知らなかった。


*****


充電の終わった携帯の電源を入れ、中を覗いて、私は拍子抜けした。不在着信はゼロ、メールは友人からのが何通かで、なんとあの人からの連絡は一つも入っていないのだ。既にあの人が出張から帰ってきて一週間は経っているというのに、一向に家に帰らない私を不審がっていないのだろうか。それとも、単にあの人の中では私など頭の片隅にも置く価値のない女なのだろうか。あの人が私を追いかけてきてあの家に引き戻したりブル君に危害を加えないかずっと恐ろしかったのに、こちらが考えている程私のことなど眼中にないのだとしたらそれはそれで癪に障るし悔しい。
でも良かった。あの人に怯えて生活するよりはずっとマシだ。早く私の中から立ち去ってほしい。私はブル君の隣にいたい。
あの人から連絡が入っていなかったことをブル君に報告して、私は友人からのメールに返信する。友人達にはあの人と無理やり結婚させられたことは話していたが、今回の家を出てブル君の元へこっそり行くという計画すらも話していない。余計な心配をかけたくなかったからだが、あの人から連絡がないことだしもう話してもいいかもしれない。

「メール、誰?」
「エリザとベルちゃんと、あとは会社の元同僚」
「おお、懐かしいんだわ。そういや何だかんだ会ってねぇなあ…」

私が彼女達の名前を出したことで、昼ごはんを作りながら二人で高校時代の話で盛り上がった。ブル君を含む皆とは高校の時に知り合ってからずっと仲が良い。近況はメールで済ませようと思ったが、久々に顔も見たいし食事に誘うことにしよう。

「高校の時もこんなことあったよな。覚えてるか?」
「こんなって?」
「エリザ達にを取られたり」
「え!」
「本当は俺が誘おうと思ってたのに、お前が先にエリザ達と約束取り付けてな。それ以外の俺の空いてる時間もお前の予定は悉く埋まってるし…いやーあれは恐れおののいたわ、神様に嫌われたのかと」

苦笑いすることしかできない。あの頃は、自覚したブル君への恋心のせいでナチュラルな行動がままならなかった時期だ。彼の言動に一喜一憂して苦しかった。

「ということは、もしかしてさっき食事に誘おうとした?」
「まあな。でも日にちずらせばいいし。あの時と違って、今はいつでもお前に会えるから」

別に高校の時だって同じクラスだったのだから毎日会っていたけど、でも確かに今とは違う。あの頃はお互いの気持ちが分からなかった。今は痛いくらい、分かる。

「せっかく外に出られるようになったんだし、沢山話して楽しんでこい」
「…ありがとう。ブル君の話もしてくるね」
「俺がイケメンな話を是非頼んだ」
「寝ぼけてベッドから落ちた話をするわ」

何を話したって彼女達には惚気と言われるのだろうけど。
2016.8.13
title:sprinklamp,