![]() 望まないはじまり 「どうかしたんですか?」 リヒテンちゃんが私の顔を覗き込む。そうされて初めて、自分が俯いていたことに気付いた。お弁当の卵焼きを取るためにしては、確かに必要以上に下を向いていた気がする。でも何故。 「朝から何だかぼんやりしてますよ。それに溜息も多い気がします」 「そう?」 「ええ。何か、煩うことでも?」 「ううん…何もないわ。気のせいよ」 私はリヒテンちゃんの心配と追及の視線から逃げるように窓の外へ目をやった。明るい春の日差し。校庭でフェリ達がサッカーをしている。 「」 びくりと肩が震える。ゆっくり振り返ると、菊が英語の辞書を持って立っていた。彼はリヒテンちゃんと軽く挨拶を交わしてから、私に辞書を渡す。 「ありがとうございました。助かりました」 「ああ、うん…いいのよ」 「では、新聞部の集まりがあるので、私はこれで」 教室を出て行く彼の背中を見てほっとするが、同時に疑問と苛立ちと羞恥がないまぜになった複雑な気持ちになる。昨日の今日で、どうして彼は今までの日々の延長にいられるのか、私には到底理解できなかった。私だけが気にしすぎているのだろうか。それにしては、私に向けられる菊の目が、言葉が、笑みが、優しいような気がするのだが。本当に自意識過剰なのか。分からない。もしかしたら昨日がそもそも嘘で、私一人夢を見ていただけなのか。 ますます分からない。 私は考えるのをやめて、お弁当の残りに箸をつける。リヒテンちゃんが意味深な顔で私を見ていたのには気付いていないふりをした。 放課後、リヒテンちゃんにまた明日と言って昇降口から出た。お互い帰る時間が近い時は一緒に帰ることが多いが、今日は別々だ。茶色いローファーを鳴らしながら通い慣れた道を歩く。 「…!」 「わっ!」 肩を誰かにぽんと叩かれる。弾かれたように後ろを向くと菊だった。未だ心臓がばくばく煩い。 「何度呼んでも返事がなかったので…すみません」 「え、うそ。呼んだ?」 「ええ、といっても二回ですけどね」 そうなのか。全く聞こえていなかった。どうしたんだろう私は。いや、どうもこうもないか。リヒテンちゃんも言っていたではないか、ぼんやりしているとか、溜息が多いとか。そんな自覚はなかったけど、原因はよく分かっている。そしてそれは、この目の前の幼馴染が作ったものだ。彼とは、物心ついた頃には既に側にいるのが当たり前で、何でも話せて、お互いのことは何でも知っている、それ以上でもそれ以下でもない関係だ。境界が曖昧でどこまで踏み込んでいいのか、判断がつかない。 彼が歩き出したので私もそれに続いた。一緒に帰ろうというのか。本当に何一つ、昨日までと変わらない。今までだって彼と下校した経験は数えきれないくらいあった。時々リヒテンちゃんやエリザも一緒だったりする。何も不思議じゃない。気にする方がおかしい。 まるで私だけが阿呆みたいだ。同じところでぐるぐる回り続ける、メリーゴーランドのようだ。馬鹿馬鹿しい。 「そういえば、菊が英語の辞書を忘れるなんて珍しいね」 「ああ…昨日は徹夜気味だったので……気付いたら朝だったんですよ」 「随分勉強熱心じゃない」 「いえ、新聞部の方です」 良かった。他愛無い話ができる。私も昨日までと同じように、日々の延長に戻って来れた。何だ、こんなに思い詰める必要なんかなかった。彼同様、いつも通りの私であればよかったのだ。友達に心配をかけてまで、授業を蔑ろにしてまで、心に留めておかなくてよかったのだ。一昨日から昨日、そして今日、明日、明後日と、滞りなく過ぎていけばいい。平穏が一番いい。そうに決まっている。 「…やっと、いつも通りになってくれましたね」 菊がふっと息を漏らした。私はうん?と首を傾げて横の彼を見上げる。彼は彼特有のほんのりした笑みを零して、それから凛とした、私達にはそぐわない、そして私が今一番避けたくてしょうがない話題を持ってきた。 「昨日のことがあったので、多少は覚悟していましたが…やはり、堪えますから」 「昨日…」 「…桜、綺麗でしたね」 遠回しに、しかしピンポイントに、私が逃げられないように退路を断つ菊は、いつの間に意地悪になってしまったんだろうと恐ろしくなるくらいに私の知っている菊じゃなかった。知らない男の人だった。薄く雲のかかった藍色の空に、おぼろげに浮かんだアイボリーの月に、よく映えるピンクの花弁が舞う昨日が、網膜の上を流れていく。綺麗だと思って焼き付けたそれは、やはり記憶から簡単には消えてくれなかった。それらに引きずられるようにして、まだ鮮明で軋みのない彼の声が鼓膜を揺する。 気が付いたら私は反対方向に駆け出していた。縺れそうになる足を懸命に動かして、遠くへ、消してしまいたい昨日を振り切るように、ただ走るしかなかった。 昨日菊に告白されたのは、夢ではなかったんだ。
2015.9.18
title:シンガロン |