わるいことしよう
わるいことしよう


ずっと使っていた手鏡が割れた。元々幽霊とかそういう類のものはあまり信じない質であったが、なんとなく嫌な予感がして貴重品だけ持って家を出た。駅に着いてから戸締りをきちんとしたかどうか不安になるも、その時はその時だ、彼に責任を押し付けようと気持ちを切り替える。


「ああ、、ごめんねこんな格好で」


彼は部屋着のまま私を迎えると、今までで一番きつく私を抱き締めた。それで何となく事情を察した私は同じように背に手を回して優しく擦る。


「今日はどうしたの?」
「…あれ、今日何か約束してたっけ?」
「何も。私が勝手に来ただけよ。貴方が泣いている気がして」
「ええ?凄いなあは。エスパーみたいだね」


彼は頬に可愛らしいキスを落とすと、端正な顔を綺麗に歪ませて、でも泣いてはいないけどね、と笑った。私は意外と多くを語らないこの人の真意をどうにか理解してあげたくて、その近道が彼をよく観察することだと悟ってから彼の至る所を見つめるようになった。ふわふわした金色の髪の毛や花弁のような美しい瞳、力強くて優しい指先に傷を隠して歩き続ける脚は、とても眩しく輝いている。恥ずかしくておこがましくてこちらが見るのを躊躇ってしまう彼の全ては、他に代わりがない程に精巧で価値のあるものだった。
だけど私がいくら彼の瞳を見つめても、体温を確かめるように肌に触れても、今は何も感じない。それが、私にも心を閉ざしてしまったのではないかという恐怖を引き連れてきて、心臓がどくどくと大きく動いた。彼の愛情は時々分からないことがあったが、それでも手付きや言葉遣いや目尻の落とし具合で私へ対する特別な好意を十分に感じ取ることができた。それは勿論自惚れではなかった。女の扱いに慣れたフランシスだからこそできる、酷く奥手な手腕だった。


「ジュースしかないけど」
「十分よ。ありがとう」
「リンゴとオレンジ」
「オレンジがいい」


氷の浮いたグラスにご丁寧にストローまで刺して私に手渡すと、彼は何も飲まずに私の向かいに座った。私は透明なストローから搾り取ったオレンジを吸い上げて喉を潤す。果汁が濃くて美味しい。
彼は私がジュースに満足するのを静かに待っていた。


「メイクポーチに入れてる、鏡が割れたのよ」
「ああ、あの薄紫の。怪我は?」
「お蔭様で無いわ。床に落ちたんだけど、裸足だったのに破片も踏んでないの。でもそれが逆に怖くて」
「何で?」
「嫌な予感がしたのよ…虫の知らせって知ってる?」
「日本の映画で観たことあるよ。所謂第六感的なあれだろ?」


テーブルにグラスを置いてフランシスの手に触れる。私と話している最中軽くグーに握られていたそれを撫でるように滑らせて両手で覆うと、彼が照れたように声を漏らした。


「珍しいね、がそんなの信じるなんて」
「…私もそう思うわ」
「魔術部にでも入ったの?」
「まさか。だけど、妙にハラハラして、居ても立っても居られなくなったの」
「本当に、はすごいね。でも大丈夫だよ」


彼は緩やかに手を広げると今度は私のそれを包んだ。ややかさついた皮膚が私の爪の縁をなぞる。不思議な感覚に溶けそうになった。


「俺は大丈夫」
「…でも、」
「ありがとう。嬉しいよ」
「フランシス」
「なあに」
「私は、貴方が好きよ」
「うん、俺も、が好きだよ」


俯くと、彼が困ったように私の頭を撫でた。フランシスの手は大きくて、あたたかくて、優しくて、がさがさしている。それが私の髪の毛に少し絡んで、まるで彼の素敵なものを何もかも奪っている気がした。


「それには虫の知らせと言ったけど、多分、にとっては良い話だと思うな。勿論お兄さんにとってもね」
「そうだ、詳しく聞いてなかったわね」
「うん。だから聞いて。俺、お前と結婚しようと思うよ」


グラスをひっくり返さないように彼の方へ行ってすぐさま抱き締める。フランシスの生ぬるい息が首元に当たってくすぐったい。ふわふわの髪の毛が頬に当たってこそばゆい。


「ずっと待たせてごめんね」
「そんなの気にしてない。嬉しいわ」
「彼女とは、上手く話を纏めたよ。俺がのところへ行ってることに、前から気付いてたみたいなんだ。…そっちは大丈夫だった?」
「頬を叩かれてあばずれと罵られたくらいよ。どうってことないわ」
「女の子に暴力を振るうなんて許せないな、お兄さんが殴ってこようか」
「駄目よ、フランシスは弱いもの、怪我したらどうするの」
「えー、酷いこと言うなあ」


お兄さん泣くよ、と言いながらも口元の緩みを隠し切れない彼は私をずっと離さないでいた。私は彼が結婚しようと言ってからは、彼から溢れる喜びを感じることが出来るようになったのでようやく安心した。きっと私がオレンジを飲んでいた時などは、フランシスは緊張していたのだろうと、それで感情が読めなかったのだろうと理解した。


「結婚式では、白いドレスを着たい」


まるで生娘のように私が言うと、フランシスが恍惚とした表情で頷いた。


「じゃあ、式はパリであげようか」



2015.2.20
title:深爪