彼女は私の説明を聞いてから、ずっと書庫を漁っている。勉強熱心なのかと感心していると、彼女が思いがけない言葉を投げ掛けてきて拍子抜けした。
「楽譜がないわ」
何を言っているのか分からない。もう一度問えば、彼女はくるりと振り返り、眉間に皺を寄せて言った。
「楽譜がないんです」
「…ガクフ?」
「見たところピアノすら無いし、まさかとは思ったけど」
「あの、すみませんが、そのガクフとは?」
するとどうだ、
さんというこの女性は怪訝な顔で私を見返した。眼鏡と呼ばれる、目のものを見る力を支える器具の奥に乾いた瞳を見る。そして溜め息を吐いた。
「やっぱり、無いんですね」
「ですから、」
「分かりました。諦めます。次に行きましょう。私に仕事を与えて下さい」
私の言葉を遮り、勝手に部屋を出ていく彼女を慌てて追いかける。女性だからすぐに追い付いたが、何故だか不機嫌な足取りだ。
「
さん」
「何です」
「その、ガクフといい、ピアノといい、私には到底分からないものなのですが、差し支えなければ、それらがどのようなものか教えて下さいませんか?」
「…楽譜は楽譜ですし、ピアノはピアノです。それ以外にありません」
静かに冷たくそう告げて、彼女は私に背を向ける。引っ掛かる点は色々あるが、埒があかないので仕方なく私は自分の職場へ案内し、仕事の説明をする。
さんはつい最近、我がシンドリアにやって来た女性だ。しかし彼女は正式な食客ではない。彼女は、ある風の強い夜、日付が変わる頃に王宮内に突然現れた。まさか一人の人間が何か物理的な媒体を経るわけでもなく現れるなど、一体誰が想像できるだろうか。それに彼女は当時酷く見慣れない格好で、加えて到底力があるような身体にも見えなかったため、他国の魔導士かもしくはアル・サーメンの新手かと思われ、武官達にすぐさま拘束された。彼女はある一室へ連れていかれ、私もそれに続く。いくつかの会話で、彼女が敵ではないということはすぐに分かった。しかし、彼女の口から出る言葉はどれも非現実じみており、容易く信じられそうになかった。出身も、住む世界さえも、全くもって異なっていた。「何が起きたかなんて、私が知りたいくらいよ」何個目かの質問をした時、流れるように静かに彼女が呟いたことが鮮明に蘇る。
さんによれば、仕事の帰りに寄った店で突然気を失い、次に目を覚ました時には既にこの王宮の中で、わけが分からず混乱していた所を武官達に見つかったらしい。
名前と年齢以外の、出身や職業などは聞いたことのない羅列で出来ており、服装も全然違う。何より、この世界の主流な言語の何一つとして読み書きが出来ない。彼女自身も、私達の格好や使っている道具等に親しみもなく、国の名前も魔法という概念も知らなかった。
彼女は私達のいる世界とは別の場所から来たらしい。
「
さん」
仕事の終わりを知らせる鐘が鳴った。一昨日山場を越えたばかりで、疲れ果てた身体を一秒でも早く休めるべく、ほとんどの文官がさっさと白羊塔を後にする。まだ残っている文官を横目に、私は
さんの所へ行き、自然に手元を覗く。仕事、といっても文字の読めない彼女には、取り敢えず分けた書類を纏めて貰っていた。
「今日の分は、一応終わりました」
彼女の手元には細かく丁寧に分別された書類の山があった。これは、と予想以上の出来に感心する。
「ありがとうございます。助かりました。それにしても、
さんは仕事が出来る方なんですね」
「これくらいのことで仕事ができると言えるかは疑問ですが、まあ、文字の方もぼちぼち学んでいきたいと思います。幸い話し言葉は通じるので」
そうだ、彼女は文字が読めないのに何故ここまで出来たのだろう。もしかして、文字が読めたらもっともっと凄いのではないか。ここ最近の彼女の私に対する対応からは生憎好かれてはなさそうだが、そんなことは正直どうでもいい。彼女が我がシンドリアに大いに貢献さえしてくれたら、それで私は助かる。せめて、彼女が彼女のいた世界に帰る日までは。
「
さん、もしよろしければ、私が貴女に文字を教えましょうか?といっても毎日は流石に難しいですが」
「いえ、結構です。私、言語は基本的に独学でないと習得が難しくて」
彼女のいた世界には数多の言語があり、異なる言語の話者同士の会話が基本的に成り立たないらしい。言語を独学とかそうでないとかいう、私にとって非現実的な行為はどうも想像つかないが。
「…でも、どうしても理解できないところがあったら、その時は聞きに行くかもしれません」
少し間を置いて申し訳なさそうにそう言った
さんに、私は不思議な感情を抱いていた。
それから彼女は本当に独学でこちらの世界の言語を習得しつつあった。仕事でも本当に活躍し、数少ない女性文官達と出掛けたりするようにもなった。しかしそれでも彼女がこちらの世界に来て三ヶ月程しか経っておらず、その才能というか真面目な努力家の姿は尊敬に値する。相変わらず言葉の節々に刺はあるし、眼鏡の向こうでは私を好いてはいなさそうだが、どういうわけか悪い印象は持たなかった。
ある朝、日が昇ってそれほど時間が経ってない頃、私は珍しく寒さで目を覚まし中庭へ出ていた。南国のシンドリアの朝はごくたまに低い気温になる。
白い花が散らばるそこは陽の光を集めきらきら輝いていた。その空間の端、やや影になった場所に、蹲る見慣れた姿を発見する。
「…
さん?」
反応がない。その代わり、鼻をすする音が聞こえる。心配になって彼女の前にしゃがみ、もう一度名前を呼ぶ。
「
さん」
「……はい」
「大丈夫ですか?どうかしたんですか?」
ゆっくりと頭を上げて、少し乱れた髪の毛から涙の跡がついた彼女の顔が現れる。その時、私は濡れた彼女の瞳を初めて見た。眼鏡の介さない、裸の瞳だった。
「ごめんなさい…私、大丈夫です。びっくりさせて、すみません…」
「
さん、そんな顔で大丈夫と言われても、説得力ありませんよ」
服の裾で涙を拭う彼女の手を止めてやると、彼女は下を向いてしまう。
「ほんとに、何でもないんです…ちょっと、寒くて起きただけなんです。寒くて起きて、冷たい空気に触れて……少し、寂しくなっただけなんです」
「どうして寂しいんですか」
「…この世界には、私が以前持っていたものが無いんです。言葉もピアノも、無いんです。そんな概念すら、無いんです」
再び涙流す彼女に私は何も言えなかった。彼女のいつもの振る舞いからは想像できなかったが、異世界からやって来て、愛着の持てるものが何もなくて、ずっとひとりぼっちだったのかもしれない。周りの人がどれだけ親切にしてくれても、彼女自身は孤独だったのかもしれない。
止まらない涙を拭いながら、彼女は小さく帰りたいと呟く。いたたまれなくて私は黙って彼女を抱き締めた。
彼女の肩の動きが落ち着いた頃、抱き締めていた腕を外す。
さんが懐から眼鏡を取り出して、それをかけた。私を見据えながら。
するとみるみる大きくなる瞳が私を更に凝視する。
「え…え!?」
「え?」
「ジャーファルさん…!?」
途端に一気に赤くなる彼女の頬に私は素直に狼狽える。
「わ、私、ジャーファルさん……!?馬鹿みたい…信じらんない…!」
「あの、
さん?」
「ごめんなさい!私、その、眼鏡がないと相手が誰なのか分からないくらい目が悪くて…!もう!本当信じらんない!」
「え?」
「貴方にこんなこと話すつもりなかったのに…!」
「どうして、ですか?」
「…だって貴方が、いつも私に構うから……こんなこと言ったら、仕事仕事っていつも忙しそうな貴方がもっと忙しくなるじゃない」
「私は、貴女に嫌われているんだと思っていました」
「嫌う!?そんな馬鹿な…いつも親切にして頂いて申し訳ないと思ってましたよ、私は」
未だに恥ずかしそうにする
さんの隣に私も座る。陽が昇ってきて、暑くなってきた。影になっていたここも眩しくなる。
彼女が目を細めた。
「ねえ、
さん、帰らないでって言ったら、どうします?」
彼女がきょとんとした顔で私を見た。涙の跡を視線でなぞりながら、私は彼女の眼鏡を外す。
囚われる
2014.2.5
50000hit!!フリリク
フェンネル様 / ジャーファル / メガネがないと相手の性別もわからない程のド近眼な、別世界からやって来たピアノ奏者夢主の生真面目で可愛らしい一面を見て更にイタズラしたくなるジャーファルのお話