すきだからゆるしてね
何もないのに、夜中に目が覚めることが増えた。
真っ暗な部屋の天井を暫く眺めていると、目が慣れて次第に物の輪郭がはっきりしてくる。首を横に動かすと隣に安らかな寝息を立てる
が居る。生地の薄い寝具を身に纏う彼女は、うちに来る時はもう少し暖かい服を持ってきてと僕が何度言っても聞かなかった。大方荷物が増えるのが嫌なんだろうけど、寒い思いをするよりよっぽどマシだと思う。ただ彼女は女の人だから結局最後に折れるのは僕で、まあうちは彼女の家よりもはるかに暖房はしっかりしてるし、僕の服も貸せるし、街に出れば可愛い服だって買ってやれるし、それらは僕の家に置いて行けばいいし、仕方なく妥協している。それでも彼女が来る度に同じことを言ってしまうから、多分あっちはウンザリしてるんだろうなあ。そしてそうなっても言うことを聞かない
もなかなか頑固だ。どうして好きになったかなんてもう忘れてしまった。一体何百年前の話なんだろう。だからこのやりとりはもう何千回と繰り返している。馬鹿馬鹿しいけど僕達にとってはコミュニケーションの一つで、冷たそうに見えるけど愛していて、きっとこの会話がなくなったら僕達の仲も終わりだろうと思える程には僕達の重なった生活の一部だ。
そんなことを考えながらこの静かな時間をやり過ごそう、そしてそのまま再び眠ってしまおうと目を瞑るのに、今日に限って頭は覚醒していくばかりだ。冷えた空気が鼻を通って肺を満たした。温もりを求めるように彼女にそっと寄り添う。温暖化なんて本当なのだろうか。ちゃんと布団を被っているのに足から熱が逃げていく。僕は少しの間じっとしていたけど、溜息を吐いてゆっくりと布団から出た。彼女を起こさないように優しく布団を元に戻すと、スリッパを履いて書斎へ向かう。昨日持ち込んだ仕事でも片付けてしまおうと思った。
机のランプを付けて、ぼんやりとした灯りの下でファイルからレジュメを取り出す。次の北欧会議で使うレジュメはスーさんが纏めてくれたのでとても綺麗で見やすい。かじかむ手を擦りながらそれにメモしたり内容を読んだりしていると、何か冷たいものが僕の首に触れた。
「…びっくりした?」
「まあ、少しね」
本当は凄くびっくりした。でもそれを悟られないよう彼女の手を握りながら振り返る。眩しそうに目をぱちぱちさせる
が僕の頭を撫でた。
「起こした?ごめんね」
「ううん、ティノが起きたの知らないわ。寒くて目が覚めたのよ」
「うん、だろうね。それ見てるだけで寒くなるよ」
「ティノは何で同じこと言うの」
「
は何で同じこと言わせるの」
彼女は僕を無視して机の上を覗く。
「仕事溜まってるの?私帰った方がいい?」
「眠れないからやろうと思っただけですよ。それにこんな時間に帰れないでしょ」
「だって、ティノは嫌でも言わないじゃない」
「そうかなあ?僕結構言うと思うけど」
僕はレジュメを机の上に放置したままランプを消して彼女の手を引いた。再び寝室へ戻って彼女にベッドに入るよう言うと窓の側に寄ってカーテンを控えめに開ける。結露してよく見えないけど、仄かに光る街灯とそれに映し出された雪で、いつの間に雨から雪に変わったんだろう、どうりで寒いはずだと納得する。何故か僕はそれに酷く感動して、思わず窓を開けた。当たり前のように冷たい風が部屋に入ってきて身震いする。
が文句を言いながら僕の隣に来た。
「何してるの」
「見て、もう結構積もってる」
「そうね、だからこんなに寒いのね。早く閉めて。雪が入ってきてるわ」
「うん」
それでも尚僕は窓の外を眺めていた。彼女は寒い寒いと阿呆みたいに繰り返しながらも僕の側で同じように雪を見ている。冬の空気は一気に部屋に埋まった。暖かかった布団も人が居なければただの置物のようで、勿体ないことをしたなと思う。僕は彼女の手を握った。氷のようなそれは、けれどすぐに握り返してくれた。冷たい手と冷たい手を繋いでもちっとも暖かくなんてならない。そんなことは何百年も前から変わらない真理で、人がいつかは死んでしまうのと同じように普遍的だ。だけど僕達にはいちいち議論する暇がないから放っておいてしまう。そうやって、どんどん忘れて分からなくなるし、気付かなくなる。忘れたことも忘れて、僕達はまた新しい身体で古い何もかもを踏み台にして次へ歩いて行く。感情が乏しいんじゃない。時間が無いんだ。この世界の誰よりも長く生きているはずなのに、時間が無いんだ。
が窓から顔を出して近所の家々や街灯を見つめて、それから黒い空を見上げた。白くて小さな雪が無秩序に舞っている。僕は彼女の瞳が美しいと思った。冬の空のように重い色をしたそれに惹かれた。そういえば初めて会った時も同じことを考えたと思い出す。
「ティノ、私、雪のにおいって、鼻を刺すようで昔はあまり好きではなかったけど、こんなに優しいって知っていたら、昔からずっと冬が好きでいられたかしら」
僕は彼女の言葉に促されて明かりの落ちた遠くの街を見つめた。あと数時間もすれば、東の空が白み出して一面銀色に覆われるだろうそこは、まだ深い眠りの中だった。
「
は冬が好き?」
「今は好きよ」
「寒くても、雪が降っても?」
「うん」
「そっか…そうだよね」
夜中は良い。彼女のおかげで、賑やかな街さえも死んだように眠りに落ちるこの時間に、僕は少しだけ昔に戻った気分になれると知った。迷走して自分の居場所が分からなくなっても、また日常に戻ればいい。家があって、国民とその家族がいて、国家があって、
が居る。たったそれだけで僕は大丈夫だ。時間を貪っていくような使い方しか出来ないとしても、僕は当然のように都合よく忘れて分からなくなってしまうだろう。そうやって生きていくのだろう。憎く感じることもある。でも結局僕はその憎いものを捨てられはしないんだ。腹の立つ程に僕の身体の一部で、永遠に脱出できない箱庭で、丁度自己嫌悪の感情に似ている。だからこそ抗う術など分からないし、分かりたくないと思う。
やや強い風が部屋に吹き込んで、彼女が僕の腕にしがみついた。僕は小さく寝ようかと呟いて窓とカーテンを閉める。室内はほとんど外気温と変わらないくらい寒くなってしまった。いそいそと布団へ逃げる
の後に続いて僕もベッドに滑り込む。すると予想外にじんわりと温かくて疑問に思う。
「さっき、ティノが窓を開ける前に、電気毛布のスイッチを入れたのよ」
まるで楽園にいるかのような幸せそうな顔をして布団に包まれる
に、胸がぎゅっと締め付けられる。これだから彼女は手放せない。
2014.11.26
title:深爪
芬 / ちひろ様