ホンダ君は流暢な英語で話す。同じ日本人だけど、生憎私なんかとは頭の作りが違うのだ。舌の滑らかさが違うのだ。私はいつも彼の私と似た黒い瞳を斜め後ろから見ていた。私達以外はほとんどが異質な空間で、それを失礼だと思いながらも、私の帰属意識を擽ることはなく、やはり事実なのだから仕方がない。
「さっきの、綺麗だったね。何を言っているのか分からなかったよ」
休憩時間になってから、留学していやに身に着いた積極性を存分に発揮する。ホンダ君、
さんの仲の私達は、出会った当初から何も進展していない。彼は、一本線を引いた向こうにいる。
「日本人ですか」
へたくそな筆記体で自分の名前を書いていた時だった。手元に影が落ちてきて留まる。何か変なことでも言われるのではないかと怖くて顔を上げられなかった。気付かないふりをして書き続けていると、懐かしい日本語が聞こえる。
「そうですけど…」
「ああ、いえ、突然すみません。変な意味はないんですよ。ただ、懐かしくなってしまって。年を取るといけませんね、感傷的になってしまって」
優しい物腰に目線を上げると、年を取るなんて表現を使うにはまだまだ早いであろう人が立っていた。私の目を丸くした様子がおかしかったのだろうか、彼はくすりと上品に笑って自己紹介をする。「ホンダ キクといいます」。ホンダ君は髪と瞳が私と同じ黒で、そして同じ日本人だった。
「
さん、ですか。字はこんな風に書くんですね」
「ええ、まあ」
「綺麗な名前ですね」
初めてアルファベットでなく日本語で、戸籍に登録している正式な名前を書いた。私の名前一字一字を優しくなぞるように呟いて、口元を緩めたホンダ君は、けれど結局自分の名前については教えてくれなかった。
私が知っているのは、彼の名前がホンダキクで、日本人で、長らくこちらに一人で留学しにきていることだけだ。日本ではどこに暮らしていたとか、家族のこととかは何も知らない。彼自身の性格がそうしているのか、はたまた興味がないだけなのか、彼は自分から自分のことをあまり話さない。こちらから尋ねてみようにも、何故かそうしてはいけない空気に吞まれて私は彼に踏み込むことができなかった。無言の壁に、私は幾度となく阻まれる。
ホンダ君はきっと本田君といって、キクは菊と書くのだろう。男性だけど花の名前、妙に彼に似合っていると思う。でも真意は分からない。人の名前を間違う勇気はないので、やはり訊くことはできない。情けない精神だった。
「隣、どうぞ」
「えっ」
「お昼、まだなのでしょう?よろしければ、一緒に食べませんか」
だだっ広い部屋の、細長いテーブルの前に腰掛けるホンダ君が一つ横にずれて私のためにスペースを譲ってくれた。私は動揺しながらも小さくお礼を言って彼の隣に座る。アジア人が二人並ぶのはとにかく珍しいらしく、色んな人がこちらに視線を寄越しては去っていく。
「私の名前、知ってます?」
ホンダ君がぼそりと呟いたせいもあってか、突然そんなことを言われた私は一瞬言葉の意図を図りかねて置いて行かれそうになる。
「ホンダキク君でしょ。知ってるよ」
「違いますよ。音ではなくて、文字でどう書くか、です」
彼は淡々とした口調で溜息を吐くと、紙とペンを取り出して私の前に置いた。何故溜息を吐かれなければいけないのかと考えるが、ホンダ君の底なし沼のような瞳に急かされて仕方なく一旦思考を止める。
本田菊、と大して整ってもいない字を書いた。合っているかどうか知らないけど、こうしか思いつかないし十中八九こうだろうから、想像以上に何も感じなかった。
するとホンダ君は安堵の表情を浮かべる。
「私、実は自分の名前ってずっと好きになれなかったんですよ」
「どうして?」
「事あるごとに私を縛って、自由を奪っていくんです」
彼の口から出てきたのは不穏な気持ちだった。思い出すのも苦痛だといったその声色に、私は耳を傾ける。しかしホンダ君はそれ以上の具体的な事柄は言わずに私の方を向いた。そんなに辛いことがあったのだろうか。
「でも、もういいんです」
さん、と呼ぶホンダ君が笑う。彼が私を下の名前で呼んだのは、あの時以来だった。
「貴女が私のことを見て、私の声を落とさずに聞いてくださったから、もういいんですよ」
彼は穏やかだった。
本田君、と初めて理解した文字を意識して彼の名前を呼んだら、私まで幸せを分けてもらった気持ちになった。
「
さん」
優しく私の名前を紡ぐ本田君を見て、私はやっと、彼が寂しさを上手く昇華できていなかったことを悟ったのだ。
舌足らずでいいの
2016.1.21
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