背中
彼女という女性は言ってみれば節操のない人だった。恋人がいてもその辺をふらふら彷徨っては別の新しい男のために恋人の枠を増やしてはそこに入れる。世間一般的にはだらしない彼女にはあることもないことも含めて悪い噂がついて回ったが、けれど周りには結局色んな男がいた。初めてそれを見た時に既視感を覚えたのは間違いではない。
「ピスティ様みたいだって思った?」
悪戯っぽく笑う彼女にそう言われたからだ。俺はただはいと頷いて、その時はそれで終わった。
しかし今はそんな風に軽く扱えない。俺は自分の心があまり広くないことを自覚していたが、よっぽどのことが無ければ本気で怒ることはなかった。
「いい加減にして下さい」
さんが酒を飲みながら、何がといった視線を送ってくるのでますます腹が立つ。
「これで何回目だと思ってるんすか」
「さあ…数えたことないし」
「
さん」
「なあに、マスルール君」
桃色のどろりとした酒が彼女の口の中に入り、喉の渇きを潤す。
さんお気に入りの酒は甘ったるくて俺はあまり好きになれない。彼女はいつも甘い酒しか飲まないので俺とは話が合わないと言う。別に酒の話なんかしなくても問題ないはずなのに、
さんは酒の趣味が合わないだけで全て合わないと言って嫌がる。わけが分からない。先輩は女と酒がどうのこうのといった話はしないのだと言う。ヤムライハさんも、恋人に振られるとよくやけ酒をしているが、その恋人と酒を嗜んでいる姿は見かけたことがない。
「これ美味しいよ」
「俺の話聞いてます?」
「つれないね。マスルール君がそんなだからとてもお腹が空くし喉が渇くよ」
支離滅裂なことを言って新たな酒を注ぐ彼女の手を握る。壊さないように、だが骨が少し軋めばいいと思いながら。彼女が笑いながら、痛いと呟いた。大体そんな甘ったるい酒じゃ余計に喉が渇くだろう。そのくらい、考えれば分かるだろう。
「ねえ」
「やめて下さい」
「こっちのセリフなんだけど」
「他の男にちょっかい出すの、やめて下さい」
彼女の目が見開かれる。ばれていないとでも思っていたのか。笑わせる。自分が周囲からどう思われているか一切気にも留めていないといった言動を繰り返しているから、まあ本当に気付いていなかったのかもしれないが。
さんは再び酒を飲み干すと、彼女の手を握る俺の手の上に反対側のそれを重ねる。そして酷く、愛おしそうに撫でた。
「浮気なんかしてないよ」
「他の男に抱き着くのは浮気じゃないんですか」
「でも私、マスルール君の彼女だから」
彼女だから、何だと言うのか。王宮内の色んな男に声をかけて、触れるようせがんで、あまつさえ柔らかい笑みまで向けて、一体何の冗談かと思う。
さんの言う彼女の定義とは何だ。身体の関係にならなければ全部許されるのか。なら一向に身体を許されていない俺は何だ。彼女の羽織るほとんど布に近い上着を剥ごうとした時に、やんわりとたしなめられたのはつい最近のことだ。酒の趣味も合わない、身体も開いてくれない、俺は他の男と何が違う?
「マスルール君、昔、妻のいる男に私がキスをせがんでいたのを貴方が偶然見ていたこと、そして貴方がどんな顔をしていたか、私は今でも覚えてるわ」
「……」
「貴方は困ったような顔をしていたわね。それでね、私本当に驚いたのよ。他の人は皆、軽蔑するような嫌な視線を送ってくるから。もう釘づけになっちゃって。それまでは、マスルール君の目が怖かったのに。まるで死んでいるようで」
「……」
「貴方のことを目で追うようになったのよ。だけどマスルール君は意図的に避けてるのかと思う程にこちらを向いてはくれなかったわね。私は食い入るように貴方を見つめていたというのに。それこそ貴方の背中に穴が空いてしまえばいいと呪いながら」
「……」
「それでね、私ようやく理解したのよ。烏滸がましいかもしれないけど、ピスティ様のお気持ちが、なさることの意味が、分かったような気がしたのよ」
「……」
「ピスティ様も私も、寂しいからしているのではないのよ。ただ一人の人を見極めるために、自分を売るしかないの。だって、こっちが絞め殺されてしまうくらいがんじがらめの愛情を向けられないと、やってられないのよ。どうしてか分かる?」
俺は無言を付き通す。この人には何を言っても無駄なのだと諦めに似た感情に支配されて酷く憂鬱な気分になった。
さんは俺の死んだような目を覗き込みながら、嬉々として自分の性癖を語る。
「私達、生きているのよ。ひたむきな欲を寂しさで隠すふりをして、実はその欲の露呈を待ってる。私はそれが楽しくて恐ろしくて堪らないの。そしてそれは、自分が本当に愛する人との間で行われるべきことなのよ」
この世の真理を知らしめるかの如く、彼女はわけのわからない理屈を並べて満足げに微笑んだ。新たな酒を持ってこようと席を立つ
さんを後ろから殴ってしまえたらどんなに楽か、俺は有り余る力を拳の代わりに足に込めて地面を蹴った。凄まじい破壊音と粉々に砕かれたそこに座り込んだ俺は、項垂れるしかなかった。
2015.11.4
マスルール / 雪緒様