私自身、とうにボロボロだった。脚なんてこれ以上動かしたら折れてしまうのではないかと思ってしまうくらい壊れていたし、ほとんど不死身であるはずの私の身体がそうなのだから、心なんてもう傷だらけの血まみれで目も当てられない。ならば見なければいいと目を塞ぐのは簡単だが、そんな力さえ残っていなかった。なのに、たった一つの不謹慎な欲だけが私を突き動かす。性欲にも似たそれが私を彼の国まで連れてきて、慣れない石畳を蹴った。脚はやはり、悲鳴を上げた。
「アーサー」
自宅の庭の真ん中で蹲る彼の元へ駆け寄り、その金色の頭を抱え込む。小さく唸った彼は、ゆっくりと私を見上げた。前に会った時より痩せた身体が痛々しい。彼の瞳は濁っていた。
「アーサー、アーサー」
私は彼の肩を掴んで優しくゆすった。私よりも大きいはずの彼の身体が簡単に揺れるのが恐ろしくて、私は縋るように彼の名前を呼ぶ。するとアーサーの口が動いたが、何を言ったか聞き取れなかった。
「アーサー、もっと早く私を呼んでくれれば」
「……」
「アーサー、私は貴方の味方よ」
ぼんやりとしたアーサーの頬をそっと撫でると、彼がほんの少し笑ったような気がした。私はボロボロの身体で、同じくボロボロの彼の身体を力の限り抱き締める。弱々しい力を腕に感じてそこに視線をやると、彼が私を掴んでいた。まるで赤子のようだった。泣き声一つ上げない、かわいそうな人だった。
「
…」
「なあに、アーサー」
彼に温もりを与えながら、私は彼にこんな仕打ちをした誰かのことを思って腸が煮えくり返りそうだった。何故彼が理不尽な痛みを。何故彼がこんなにも衰弱しなければいけないのかしら。
だけど、アーサー、貴方は。
「
、お前も、もうとっくにボロボロだ」
だから私に助けを求めることができなかったと言うのか。貴方に比べたら、私などまだまだ元気なところが残っているというのに。探そうと思えば、痛みを受ける場所など簡単に探し出せるというのに。
彼は人の痛みに敏感だ。ある驕っていた時期を通り過ぎてから、再び他者に目を向けるようになった。自分だって痛いくせに、人の痛みを見る方が苦しいらしい。彼は愚かで優しい生き方をしている。モンスターのような緑色の瞳で、周囲の人々を眺めている。
「馬鹿ね」
そっと口付けると、彼はそれを大人しく受けた。そして私の口の中で小さく謝罪した。それが何に対する謝罪なのか、私には分からなかった。
でも私は、彼の愚かさを見て単純に愚かだと思ったから馬鹿だと言った。もっと楽で相応しい生き方があるのにそれを上手く避けて、寂しいのが嫌だというくせに寂しさが側に潜んで自分を狙っていないと生きていけない彼は、本当に馬鹿なのだ。本来ならば、愛する人のかわいそうな姿など見たくないのだ。
だけど、アーサー、貴方は理解しているのだろうか。私が何故ボロボロの身体でここまでやって来たか。何故石畳を蹴る時に耳を塞いだか。
「涙の跡が残っているわ、アーサー。一旦家に入って綺麗にしようか」
私は一つ、滑らかに嘘を吐く。
だって今も貴方は綺麗だ。憔悴して人に助けも呼べず涙も拭えない、疲れ切った貴方はとても綺麗だ。怪物のような緑の瞳がその威厳を失っている様も美しい。貴方のせいではないのに、自責の念にかられて項垂れる弱った背中が好きだ。まるで、彫刻みたいで。
不謹慎なのは分かっている。それでも性欲に似たこれは減速する術を知らない。アーサー、貴方が好きだ。貴方が世界の何か酷いことにどうすることもできなくなって困っている顔が好きだ。心身ともに引き裂かれて傷付いている貴方は誰がなんと言おうと甘美なのだ。
家の中に入って彼をベッドに寝かせてから、温かいタオルで身体を拭いてあげようと思ってお湯を沸かすためにキッチンへ入った。そこでゆらめくコンロの炎を眺めながら、どうして皆分かってくれないのかしらと溜息を吐く。私はいつだってアーサーの味方だけど、私の味方は誰もいない。皆、この美しさが理解できないのだ。
2016.9.1
title:まよい庭火
material:キャメルクラッチ