最大幸福
今まで好きになった人は皆、蜂蜜のようなキスをする男だった。
全く気付いていなかったのかと聞かれれば、嘘になる。私にだって人を見る目はある。いや、あると思っていた結果がこれなのだから、本当はそんなもの私には備わっていなかったのだということだろう。片鱗は確かにあった。これで1%も分からないと言うのなら人として終わっている。自分でも分かる。ということは、やはり私は人として終わっているのか。彼が遊び人だと知っていながら付き合ったのは、私なのだから。
私は大学の図書館でそれを見つけた。後輩に可愛い子が入ったとは聞いていたけど、まさか彼は顔さえ良ければどんな女でも手を出すのか。本棚に凭れ掛かって彼からのキスを受ける女の子は、さながら恋する乙女だった。彼の方は気味が悪い微笑みで彼女を貪っているが、傍から見たらこんなのはただの恋人同士だろう。入る隙などない。ああ、私は騙されていたんだと、気付くのが遅かった。違う、見ないふりをしていたんだ。知っていて、だけど自分の目で確かめようが無かったからそっと蓋をしただけだ。そしてその蓋が、今、開いただけだ。
中身が十分に入っていない風船のように中途半端な怒りと悲しみは膨れも萎みもしない。ただその風船の中はヘリウムではなく空気だったので、素直に重力に従い下へ落ちて遂に地へ着いた。しかし風船のように軽く跳ねたりせず、地に着いた衝撃を吸収して、沈黙する。彼が私に気付いて焦ったような顔をした。幸い女の子は目を閉じているので、今の内だと思って私はその場から離れた。紐で繋いだ風船を引き摺りながら、講義室へ早歩きで向かう。階段を軽やかに駆け上り、目的の階まで辿り着いた時には肩で息をしていたけど、清々しい気持ちになった。そのまま講義室のドアを開けると、いると思っていなかった人がいて思わずドアを閉める。
「間違ってねえよ、ここだ」
「…そうよね、教室の名前も間違ってないし」
中からアーサーが呆れたように私を呼んだ。私はもう一度ドアを開けて、何か作業をしている彼の隣のイスを引いた。アーサーはちらりとこちらに視線を寄越しただけで何も言わないので、甘えた私はそこにそっと座る。机の上に散らばるプリント類を、一応許可を取ってから手に取った。
「アーサーって部長じゃなかったっけ」
「うちの部に入部するには満たさなければならない条件が多いからな」
「怪しそうな部だもんね。今年新入部員来た?」
「別に怪しくなんかねえぞ。伝統と古の…まあこれ以上は言えないがな」
「来なかったんだ。ただでさえ過疎で部長と会計兼任なのにそれは辛くない?」
数字の並ぶプリントに書き込まれたアーサーの字は恐ろしく読めない。普段は流れるような綺麗な字を書く彼と同じ人が書いたものとは思えなかった。アーサー、と名前を呼んでこちらを向かせると、やはり目の下に薄ら隈がある。よほど厳しいらしい。
「よく見たら顔色悪いわね」
「心配してくれるなら、魔術部に入ってくれ。お前なら歓迎するぞ」
「気持ちは有難いけど私妖精さん見えないのよね」
昼休みが短くなるにつれて講義室にはぞくぞくと人がやって来る。この講義は必修なので同学年のあらゆる学部の人達が一斉に集合する。私の遊び人の彼氏もそうだ。いつもは二人並んで座るけど、当然のことながらそんな気分にはならない。それより早く彼氏彼女を解消したい。浮気現場を目撃しそれがばれたのだから、もう赤の他人に戻っていいと思うのだが、多分そんなに上手くいかない。ちょっと魔が差したとか、お前が一番だよとか、好きなのは本当、なんて乾いた嘘を並べて、そうして結局は口を噤む私を嘲笑うように蜂蜜みたいなキスをするのだ。安易に想像出来るこれからに溜息を押し殺す。その残骸は彼のキスのように甘ったるい。
「
、そろそろチャイム鳴るぞ」
だから早く彼氏のところへ戻れ、と言いたいらしかった。私と彼がいつも仲睦まじく隣同士に座っているのを知っている友人だからこその言葉だ。アーサーは、丁度今講義室に入ってきたばかりの彼氏を見つけたようで、私に目で催促してくる。
やっぱり、駄目だ。明らかに他に女がいる素振りを見せられても彼女になった私だ、あんな最低な男に裏切られても尚怒りより悲しみの方が強い。図書室から引き連れてきた憤りの風船は大人しく床に横たわったままだ。弱い私。馬鹿な私。人を見る目の無い私。自虐で自己を保とうとする辺り、都合のいい女の典型なのだろう。
「
」
「いいの。行かない」
「何かあったのか?」
「何も。ただ別れたいと思っただけよ」
精一杯アーサーに返して、私はバッグからルーズリーフとペンケースを取り出して講義に備える。彼の元へ戻る気など無い。戻りたくない。アーサーは何か言いたそうだったけど、私に合わせて黙ってサークルのプリントを纏めてファイルに綴じた。
講義室のざわつきが一番大きい時間に入った。彼氏がやっと私を視界に捉えたのか気まずそうな申し訳なさそうな、だけど希望を失っていなさそうな顔で遠くから私を見ている。この期に及んでよくもまあ、とじわじわではあるがやっと苛立ちを覚えた私はわざとらしく視線を逸らす。ああでも、彼の小汚い欲塗れの顔が可哀想に歪むのを最後に見てから、彼氏彼女を終わりにしても良かった。そういえば私は今まで出会いも別れもあまり良いものではなかった。
「なら、さっさと別れて、今度は俺のもんになれよ」
隣から早口でそう告げられて、不覚にもどきりとした心臓はどうかしてる。男とは、皆こういうものなのか。突然のことに持っていたシャーペンを落として、それは机の上をころころ転がってアーサーの方へ行ってしまう。アーサーはそっぽ向いて私にシャーペンを渡すと、聞こえるか聞こえないかの声で返事を訊いた。
「返事って、」
「俺のになるのか、ならないのか、この二択しかねえだろ」
「…分からないわ、そんなこと」
チャイムが鳴って、部屋もだんだん静かになっていく。居たたまれなくなって彼の隣から離れようとすると手を掴まれて阻止された。どうやら明確な答えを出すまで離してもらえないらしい。本当に困った。
「分からないのなら、試してみるか?」
アーサーの顔が近付いてきたと思ったら、一瞬だけ何かが唇に触れて、そして風の如く去っていった。私はピタリと呼吸を止めて、それから阿呆みたいに唇のてっぺんを指でなぞる。息が苦しくなってきた頃、漸く理解した。これは蜂蜜ではない、もっと別の甘い何かだ。
いつの間にか風船はどこかに行ってしまったらしく、私はアーサーの隣で大人しく講義を受けた。だけどこれでやっと蜂蜜ではないキスが貰えるのだと思うと口元が緩んで仕方がなかった。今度風船を持つ時は中をヘリウムで一杯にしてほしい。
2015.3.13
英 / 凪様