オレンジ
泉がそれを手にしたことには気付いていないふりをする。というか、何で今ここに居るんだろう。できれば部屋から出て行ってほしいのに、私は彼に強く言えない。時計の針は無慈悲にもどんどん進んでいく。
「何これ」
「浮輪だけど」
彼が短く息を吐いた。ちょっと喧嘩越しだったかもしれない。でもいいんだ。泉は私の心になんて興味ないのだから。
鏡に映る自分のすっぴん顔に嫌気が差す。早くメイクをしないと太陽は真上に昇っていってしまう。せっかく出掛けようと思っていたのに。泉のせいで計画は全て台無しだ。クローゼットの前でシンプルなワンピースが悲しそうに佇んでいる。
こっそり振り返ると泉が浮輪を弄っているのが見えた。まだ膨らんでいないそれを広げて、感嘆の声を上げる。
「すげ、プールのにおい」
泉が浮輪を窓の方へ向けて、陽の光を浴びせた。空気の入っていないそれはまだしわしわだが、私の脳内を駆け巡るのはしっかりとした夏の記憶だ。
私はプールでも海でも浮輪に乗って、水の上でのんびりしているのが好きだ。だからいつも浮輪を持っていく。現地で調達してもいいが、学生の財布事情はシビアで、少しでも節約したいのだ。荷物にならないようにと畳んでコンパクトなサイズにしていたのに泉が広げてしまったので、また畳み直さなければいけない。別にそんなこと苦でもないのに、今はとても気が重かった。
「なあ、これ空気入れてもいいか?」
内心信じられないと思った。私の呆れは明らかに顔に出ているはずなのに、泉は好奇心に満ちた瞳で私に訊いてくる。もうどうでもよくなって了承すると、彼は空気を入れるところに直接口を付けて浮輪を膨らまし始めた。この時、今日初めて目が合ったことに気付いて本当に落ち込んだ。鏡に映るすっぴんな私は途方に暮れている。
話したいことは沢山ある。最近のお互いの近況とか、テレビの話とか、部活の話とか。泉の所属する野球部はかなりハードで、夏休みに入った今ではほとんど会うこともできていなかった。
寂しくないかといえば嘘になる。でも野球をしている泉は好きだし、泉だって野球が好きなのだ。彼から好きなものを奪いたいとは思わないし、そんな権利もない。しょうがないと理解してはいても、自分が泉の好きな物リストに入っているかさえ疑ってしまう私が、彼を困らせる立場にはなれないのだ。なってはいけない、とも思う。泉の彼女というポジションに収まった今も。
弱い私が作り出した隙間を補正するために、私はこの夏休みにかなり予定を埋めた。お陰でただでさえシビアな財布事情は更に悲惨なことになってしまったが、浮輪のように上手く節約してやりくりするしかない。勉強も、整った空調設備を求めて街の大きな図書館へ行ってやっている。家にこもる時間を減らし環境を変えることで、余計なことを考えないように努めた。何か別のことに集中していないと、泉は簡単に私の思考の海に浮上してきてしまう。今日は一人で買い物へ、明日は友達とプールへ行く予定、だった。
「
」
彼の声と同時に頭に何かが当たる。振り返ると泉が浮輪を持って私の後ろに立っていた。浮輪はしっかり膨らんでいる。オレンジの花の模様が窓から差し込む陽の光に透けて輝いていた。それを顔に近付けられたことで鼻につんとくる、ビニールとカルキのにおい。
「どっか遊びに行くのか?」
「…明日、友達とプールに行く」
「じゃあ今日は?」
「一人で、買い物」
泉から目を逸らして、今日着るつもりだったクローゼットの前のワンピースに視線を送る。大人っぽいデザインで、泉の前では恥ずかしくてまだ着られない綺麗なベビーブルーのワンピース。突然泉が来てしまったので、慌てて部屋着から別の服に着替えたのだ。メイクをしていなくても十分着られて、幼稚で可愛くない私に似合う服を。
「んじゃ、早く準備しろ」
そう言って部屋を出て行こうとする泉を慌てて引き留める。先程まで早く出て行ってほしいと思っていたのに、いざ居なくなろうとする彼の腕を掴んでしまうあたり、私は面倒くさい女だ。
「泉、帰るの?」
「は?何でだよ。買い物行くんだろ」
「…それって着いて来てくれるってこと?というか今日部活は?」
「無ぇから来てんだろうが。久しぶりだから荷物持ちくらいにはなってやるよ」
嬉しさが身体の内側から湧き出てくる。緩む口元を引き締めることも忘れて彼を見上げていると、泉の腕を掴んでいた手を少し乱暴に振り払われて、早くしろと頬を摘まれた。それが泉の照れ隠しだと理解するのに時間はかからなかった。
泉が出て行った部屋で私は勢いよく服を脱ぐ。ワンピースをハンガーからするりと落として着てみると、今までのどの日よりも似合っていた。急いでメイクも済ませ、部屋を出る。リビングで待っていると思っていた泉が部屋の外で座っていたのには驚いたが、それ以上に、私の姿を見た彼が大変分かりやすい反応を示したことに気持ちを持っていかれてしまった。勿論、良い意味での、分かりやすい反応だ。
泉が隣で私の手を引いて歩いてくれるだけで、頬をほんのり赤く染めて思い詰めた表情でたまに私を見てくれるだけで、私の夏の記憶は簡単に上書きされる。それと同じタイミングでいちいちのぼせる私に、彼は気付いているだろうか。
2016.8.2