名前を呼んで
無事世界会議も終わりホテルに戻ろうと部屋を出たところをブルガリアに捕まった。なんでも寄りたいところがあるので付き合って欲しいとのことだった。正直おいらは長旅といつも通りのグダグダな会議に酷く疲れていたので断ろうとしたけど、こいつには世話になっているしどちらかといえばいつも彼を付き合わせているのはおいらの方なので、疲れを表情に滲ませないようできるだけ普通に了解の返事をした。ブルガリアが寄りたいという店について話していると、おいらの後ろから誰かやって来た。若干引き攣るブルガリアの顔を見てそれがロシアさんだと気付いたおいらは、器用に愛想良く応対する。
「あれえ、二人とも、何の話してるの?」
「…こんにちは、ロシアさん」
「あ、こんにちはロシアさん。会議やっと終わりましたね。おいら疲れましたよ」
「こんにちは。そうだね、でも僕は今日の会議はとても楽しめたよ。それと同じくらい苛々したけどね。ところで二人とも、僕のことは名前で呼んでくれていいのに。僕たちは友達でしょ?」
「ははははは」
友達なら自分が上でなければ気が済まないといったような威圧感を出すのはやめろと思った。流石においらも馬鹿ではないので、ブルガリアに用があったらしいロシアさん達の去る背中を見ながら溜息を吐くだけにとどめる。ロシアさんとの話が終わったらブルガリアの方から連絡するよう言ったので、会議中切っていた携帯の電源を入れる。特に誰からも連絡は来ていなかった。
さて、ブルガリアを待つ間暇になってしまったので、何か時間を潰せるようなものを探すも、こんなお堅い建物の中にそんなものは無かった。外へ出て軽食をつまもうかとも思ったが、ここがイギリスであることを思い出してやめる。アーサーの味覚は絶対におかしいと思う。
どうしたものか、ロシアさんのあの様子じゃ、結構時間がかかりそうだった、一度ホテルへ戻って休もうか。しかしここからホテルまではそれなりに距離がある。それなら仮眠室のようなものはないかと探し始めた。以前日本で会議があった時に、その会議室とは別の階に、簡易的なベッドの並んだ楽園のような部屋があった。日本人は頑張り屋だなあ、けど、だから過労死するんだなと思った。まあ取り敢えず動こう。あまり考えていても時間が過ぎるだけだし、何だろう、ほんのり頭が痛い。
「…わっ」
「あっ」
曲がり角の向こう側から人が来ているのが分かって、でも避けられなくてぶつかった。相手はおいらの存在を完全に認識していなかったらしく、正面から盛大においらの胸に突っ込んで後ろに倒れた。ここでおいらも咄嗟に支えるとか気の利いたことをすれば良いんだろうけど、急なことだったし多分疲れで反応が鈍くなっていてちょっとよろめいた。視線を下に向けると相手は女性だったので、おいらは慌ててしゃがんだ。そして相手が誰だか分かって、小さく息を呑む。
「
」
彼女はおいらが名前を呼ぶと一瞬ぽかんとしておいらをじっと見つめた。だけどすぐに立ち上がって、申し訳なさそうな顔で謝罪する。
「ああ、ルーマニア、ごめんなさい。完全に私の不注意だわ」
「ううん、おいらもごめんなんだよ。大丈夫?」
訊きながらおいらは彼女のために差し出しかけた手を引っ込める。彼女は急いでいたが故に通路を走っていたことを簡単に説明して、再び謝った。
「ロシアさんを探しているの。帰る前にちょっと話したいことがあって…ルーマニア、知らない?」
「ロシアさんなら暫く会えないと思うよ。ブルガリアを連れてどこか行ったから」
「そうなんだ。どうりで探しても見当たらないわけね」
彼女は納得したようだったが、すぐに別の問題にぶち当たったみたいだった。つまりは、おいらが抱えているものと同じ。
もし相手が
じゃなくて別の人だったら、おいらは迷わず一緒に時間を潰そうと声をかけるだろう。どうやら仮眠室のようなものは無いようだし、今からホテルにも戻れない。いつブルガリアが戻ってくるか分からないこの状況で、こんな何もない所で一人でいるのはなかなか辛かった。下らないネタでも、適当に相槌を打っていれば時間は過ぎてくれるので楽だ。
しかし相手は
だ。おいらは彼女とまともに会話したことが無かった。というか、その機会を彼女から与えられなかったように思える。
は会議の休憩中でも女を含む他の国々と離れて一人でいることが多い。たまにあのフライパン女やベルギーあたりに声をかけられてはいるものの、二言三言話して、やがて誘った彼女たちの方から離れていく。そして恐ろしく仕事の出来る女だ。アメリカやイギリス、フランスなどのせいで会議が乱れても、怒るドイツの横でノートパソコンを凝視しながら会議が続行できるよう動いていたりする。前に彼女と一緒に仕事をした時も、EU加盟によって増えた仕事に追われるおいらを見かねて、流石に他国の仕事内容にまで口は出せないようだったけど、
とおいらの間だけの仕事は後回しにしてくれたり、分厚い資料から要点だけを抜き取って精密に並べたレジュメを作成しておいらに渡してくれたこともあった。あの時は本当に感動した。しかし、そんな時であっても、彼女はおいらの感謝の言葉すら受け取ってはくれなかった。口が動く前に、おいらの前からすっと居なくなるのだ。そりゃあ、彼女にとっては要件が済んだのだからそれ以上何もないのだろうが、おいらはそのどことなく冷めている感じが少し苦手だった。たとえ困っていても、手を差し伸べたところで握り返そうとはしない、孤高の女。特別顔が整っているわけではないのに
は美しかった。凛とした佇まいと隙の無さがその所以だろう。おいらは、それらがまるで彼女が作り物である証拠のようだと思った。人じゃないかのように感じていた。
「…ルーマニア、教えてくれてありがとう」
おいらがずっと黙ったままでいたからか彼女も同じように静かにしていたが、やがて気まずくなったのだろう、口元を僅かに緩めてそう言うと、カーペットの上に落としっぱなしだったファイルを拾っておいらの横を通り過ぎようとした。でもそれは彼女がふいにバランスを崩したことで叶わなくなった。重力に引っ張られるように足元からがくんと倒れ込む
を、おいらは先程とは違って咄嗟に手が出た。結果屈んで彼女の肩を支えている状態になる。おいらよりも彼女自身が一番びっくりしているようで、視線が忙しなく動いていた。
「…大丈夫?具合悪いの?」
「ううん、大丈夫…でも、なんか…」
「なんか、何?」
「足が、変」
彼女と一緒に足に目を遣るが、ストッキングの上からではよく分からなかった。
「痛いの?」
「痛いというか…」
「もしかしてさっきぶつかった時捻った?」
彼女はおいらから目を逸らして曖昧な表情をする。言いづらいのだろう。彼女はヒールを脱いで手に持つとゆっくり立ち上がった。
「
」
おいらは彼女の返事も聞かずに彼女を横抱きにする。すると彼女は素っ頓狂な声を出して、おいらに控えめに抗議した。おいらはそれをも無視して近くの部屋へ入った。イスをこちらに向かせて彼女を座らせる。彼女はおいらを見つめている。
「…ありがとう」
「って、思ってないでしょ」
そう言って彼女の足を見遣る。やはりよく分からない。心なしかちょっと腫れてるかもしれない、程度の違いだし、そもそも普段の彼女の足なんて知らない。
「…こんな高いヒールを履いてきたのが間違いだったわ」
「女性だし、皆そんなもんだよ」
「本当は、ヒール履き慣れなくて苦手なのよ」
「え?そうなの?じゃあ何でわざわざ苦手な靴履いてきたのさ。もっと低いやつあるんでしょ?」
「だって、このスーツには似合わなかったから」
彼女はイスの上で窮屈そうに足を曲げると、そっと足首に触れる。ストッキングと指の擦れる音が微かに聞こえた。よく見ると、彼女の爪には他の女の子たちみたいにマニキュアが塗られていたりしなくて、さらに驚くべきことにちょっと深爪で赤くなっている。おいらはそれに惹かれるように手を伸ばして、彼女の小さな手を包み込んだ。
ふと視線を感じて見上げると
と目が合った。次の瞬間、おいらは思わず目を見開く。彼女が顔を真っ赤に染め上げて、黒い瞳を濡らしていたからだった。それで、おいらは弾かれたように手を離した。場所が場所だし、急に手を触るなんて、これは立派なセクハラじゃないか。
、とおいらが名前を呼ぶと、遂に耐え切れなくなったのか、彼女の目から涙が零れた。おいらは激しく狼狽える。
「ごめん、本当にごめんなんだよ」
「……ごめん、ちょっと、びっくりしただけよ」
「あのね、別に、セ、セクハラしようとか、そんなんじゃ…」
「分かってる…大丈夫よ。その、お尻には触ってない。大丈夫」
そう言いながらも涙が頬の上を伝う。おいらはハンカチを取り出して彼女に手渡した。
「ありがとう…」
「…ごめんね」
「違うの…本当にびっくりしただけなのよ。だって、貴方が、急に、あんな風に抱き上げたり、私の手を握ったりするから…」
「やっぱり嫌だった…?」
「嫌とかじゃなくて…恥ずかしかった」
自分の言葉を咀嚼したせいでより自覚したらしい
が頬に両手を添えて俯いた。おいらは今日、奇跡的な光景を何度も目の当たりにしている気がする。頭が良くて隙が無くて完璧な
が、恥ずかしがって泣いている。思えば苦手なはずの高いヒールを履いてきたことも奇妙なことであった。機能性快適性を重視すれば、もう少し履き慣れた、ヒールの低い靴を履こうと思うだろう。深爪だって、見た限りでは、その長さが好みというより爪切りに失敗して深くなったかのような形だった。
「
、思ってたのと違うね」
「え…?」
涙を丁寧に拭う彼女の手を引いて、そのまま緩く抱き締めた。挨拶の時のそれのような軽いものですぐ離れたが、彼女は呆気に取られて動かない。おいらはやっと気が付いた。彼女の身体は当たり前のように温かい。彼女を横抱きにした時に、いや、彼女が体勢を崩してそれを支えた時に、深爪を見た時に、おいらは気付くべきだったんだ。
が、おいらと変わらない生きた人であることに。作り物などではなく、完璧でもなく、血の通った脆い女性であることに。
「ねえ
、一緒に寝ようか」
「…何言ってるの?」
「今日は、おいらがお前の足になるんだよ」
「私別に、さっきのことは全然怒ってなんかいないのよ。触ったんだから責任取れと言うつもりもないのよ」
イスに腰掛ける彼女の膝ぐらいの高さから見上げると、
の肩に力が入るのが分かった。そんなに気張らなくても。別にセックスしようと言ったわけではない、ただ純粋に
の隣で休みたかった。でもその流れで抱いてもいいなとも思った。ついさっきまでの自分では考えられないことが起きている。
が、どうしようもなく愛しい。もしかして普段の彼女の冷めた言動は、羞恥から来ているのではないだろうか。脆い自分を守っているのではないだろうか。もしかして、突き放しているように見えて、本当は優しいだけだったのではないだろうか。彼女に対する印象が次々と覆されていく。
もうロシアさんとの用事はいっそ無くして欲しい。おいらも適当に理由つけてブルガリアとの約束を断るから。そうだ、具合が悪いと言ってホテルに戻って彼女と一緒に眠ろう。同じベッドで、同じシーツで、お互いにスーツを脱いで、抱き締めあいながら眠ろう。男と女の仲は本当のところ一緒に寝ないと分からないらしい。ああ、でもそれはセックスの話か。区別がつかなくなってきた。もう何でもいい。
と一緒に寝たい。側にいたい。
「
」
もう一度名前を呼んで、今度は積極的になったおいらが彼女の手を掴んで恋人繋ぎみたいに指を絡めると、
はちょっと困ったような顔をした。そんな顔もするんだとおいらは素直に嬉しくなって、余計に彼女の心と唇が欲しくなる。ああもう、これは落ちた。
2014.9.28
新連載おめでとうございます。