兄に手を引かれて入った質素な部屋に、一人の女がいた。
よう、という兄の声に振り返った彼女が俺を見下ろして、微かに微笑む。俺とは、俺達とは正反対の明度の低い色素を持つ、睫毛の長い女。否、女の人。
はじめまして。君がルートヴィヒ君かな。
よろしく、と彼女が手を差し出しているのを舞台の役者を見る心境で眺め、我に返り慌てて自分の小さな手を彼女のそれに合わせる。俺の頼りない、短い指が彼女の手を掴む。何だか気恥ずかしくて彼女の顔をまともに見れずに、視線はずっとその二人の繋がった手に落ちていた。
1.
「
は、兄さんみたいだ」
ちょっとした冗談のつもりだった。親しい間柄の俺達の、他愛もない会話。いや、もしかしたらしっかりとした会話にも成り立たない、家族のような戯れだったのかもしれない。返答がなくても無視には成らず、愛情があるからこそ創り出すことのできる空間。俺達の、俺達だけの空気。
冷たい何かが隣にある。見てみれば、俺よりも低い位置にある彼女が、息を殺して泣いていた。すっかり酔いが回っていた身体から熱が引いて行く。何があったんだ。何故泣いているんだ。どうしたんだ。俺は自分が何か、彼女の気に障ることについて発言してしまったのではないかと焦り、店に入ってからのことをテープレコーダーのように頭の中で再生しそれをなぞった。仕事のこと、最近のこと、共通の友人達の話、俺の兄のこと。しかし、どれもこれも思い当たる節がない。ならばきっかけとなった先程の俺の発言か。だが、彼女がそんな軽い冗談ごときで傷付くようなひととは思えない。顔なじみの連中につまらないと評される俺のジョークにさえ、巧みな返答をしてみせるのが彼女の常だ。それは勿論優しさであるのは間違いないが、それよりも寧ろ彼女の聡明さによるものである。
故に、分からなかった。彼女の感情が、心の中が、どのようなことになっているのか。風のない日の広い湖の如き穏やかな水面に、投げ入れられたもの何か。俺には量れない。随分長く、知り合っていたというのに。
「……ごめん、ちょっと、頭冷やしてくる」
彼女が持ち物を持って店を出て行ってからふとテーブルの上に視線を戻すと、彼女のグラスの側にいつの間にか紙幣が数枚置かれていた。支払いは俺がカードですると店に入った時に話したのだが、彼女はああ見えて真面目で頑なな人だから、きっとそうしたのだ。
声を、かけられなかった。彼女が自分の分を財布から取り出しているのに気が付かない程、俺は動揺していたのか。確かに彼女の泣き顔は久しぶりに見た気がする。
最後に
が泣いたのはいつだっただろうか。
2.
「ルートヴィヒを、逃がしてやって」
ギルベルトは私の言葉を鼻で笑って一蹴した。血痕の残る軍服に似合わない笑みだった。
彼は私の旧友の一人だった。私達は、自分の意志ではどうにもならない巨大なものを背負う者同士だった。故に、長い長い歴史の中で敵対してしまうことはあれど、友人であることには変わりなかった。
だから最初に彼には申し訳ないと思った。それを告げると、お前はそれを謝る質なのかと呆れられる。
ギルベルトの方にこそ本当は足りていないものがあるとは言えなかった。
「ルートヴィヒを一人にしないで」
「お前矛盾してるぞ」
「…ごめん、勝手なこと言ってるのは分かってる。でも、」
「だああああ分かった!俺様が悪かった!……ちょっとからかっただけだってーの。真に受けんな」
私は俯いた。気丈に振る舞うギルベルトを見たくなかったからと言ったら怒るだろうかと考えていたら、彼が本格的に謝罪を始めたので、この男はいかなる時も良い奴なんだなと悲しくなった。弟を守って、ついでに私まで庇ってくれる。
「あいつにはお前がいるだろ」
「私が貴方の代わりに彼を守るよ」
「偉大な俺様の有能な弟が、お前にただ守られるだけの男だと思うか?」
「守ってみせるわよ。馬鹿にしてるの?」
「ルッツは、お前の可愛い可愛い義弟じゃねえだろうが。お前だってあいつの義姉じゃない」
「…貴方達兄弟の間には、本当の意味では入れないって?」
「そうじゃねえっつーの。分かれよ、
」
その後彼の秘書からの呼び出しによって私達はその場から出た。以降は別々の道を歩むことになる。去り際にギルベルトがルートヴィヒに簡単な説明だけして行ってしまったのでルートヴィヒは少し機嫌が悪かったが、そこは何百年も兄弟をやっているだけあってすぐに復活した。そもそも彼はギルベルトのところから生まれた子供だ。身体を構成する細胞のどこかには、兄の性質と相通ずるところがあるのかもしれない。
私は無事仕事を再開させたルートヴィヒを見て、ギルベルトは私に何を言われようと言われまいとルートヴィヒを安全なところへ逃がしてやっていたに違いないという信頼に似た確信に今更ながら思い至って一人恥ずかしくなった。
いつまでも突っ立っている私にルートヴィヒがソファを指差し座るよう促す。それに従いつつ私は愚痴を零してしまう。
ほとんど八つ当たりだった。
「ギルベルトに、お前はルートヴィヒの義姉ではないと言われたわ。そんなの分かってるけど、そんな風に言わなくたっていいよね」
「確かに、
は俺の姉ではないな」
「……貴方が小さい頃、あんなに可愛がってあげたのに」
「押しつけがましいぞ」
「そう。私の愛情は一方通行だったってことね。さようなら」
「待て、短気を起こすな。……くそ、俺も兄さんと同じか。いつも言葉が足りない」
「それにちゃんと自分で気付くことができる辺り、貴方の方がずっと優秀よ。大丈夫、分かってるわ。ギルベルトの真意だって言葉通りではないんでしょうし」
「いや、勝手に解釈して納得しないでくれ。確かに
は俺の義姉ではない。これはもう事実なのだからどうしようもないだろう。だが、俺はお前のことを、その……実の姉のように慕っている。これは俺の気持ちだ。生まれとかそういうものは本人が決められることではないが、気持ちは俺だけのものだ。だからほら、どうだ……こちらの方が、事実よりずっと重要だと思わないか?」
自分で言っておいて恥ずかしそうなルートヴィヒが、けれどしっかり私の目を見つめたまま問うてくる。問いとはいえ否とは言わせてもらえそうにもないし、言うつもりも毛頭ない。出会った頃は私の顔もまともに見ることのできない、小さな子供だったのに。
「そうか。そうだね。ルートヴィヒは良い子だ」
「……子供扱いしないでくれ」
「義姉さんと呼んでもいいのよ」
「
」
調子に乗る大人をたしなめるルートヴィヒもまた、大人だった。私は普段、あまりそういったことを口にしない彼が私のことを家族のように慕っていると伝えてくれたことが嬉しくてたまらない。はずだった。
「
」
ルートヴィヒの、私の名前を呼ぶ声が耳の奥で再び響いた。低くて柔らかい、私を想う声。私は疑問に思う。そして動揺する。ルートヴィヒは私を姉のように慕ってくれている。私だって彼のことを弟のように思っている。穏やかで理想的なうつくしい関係だ。それにもかかわらず心に浮かんだのは、どうしてか、凍える色をした寂しさだった。その青に激しく見覚えがあったのが恐怖で、私は信じたくなかった。しかし疑念を払拭しようとすればするほど、辿り着きたくない解答の前に引き摺り出される。私は浅ましくも、私達の間には不釣合いなものを持ち込んでいる。
そのことを正しく理解したのは、ルートヴィヒに家族の情を打ち明けられた後、彼と彼の兄が不本意にも袂を分かって少し過ぎた頃だった。
ルートヴィヒのことをかつて雛のようだと思っていた。それを近くで見守ってきた。感情の機微に疎くて、言動に無駄がなく時にストレートな物言いをしてしまうけれど、優しい、本当に優しい人だ。間違ったのは私だ。
私達は残酷な形をしている。無駄に可視化されたこの肉体を使って、何か意味があることをしようとする。感覚があるから、熱が欲しくなる。成し遂げた後に残るのはただの虚無なのに。
人なんて所詮は口も足も、心でさえも、何度開いたところで満たされてはくれない欠陥品だ。だから片道の時は、足りないと、声もなく叫び続けるしかない。余計で余分な私の一部。いつから抱いてしまっていたんだろう。いつから確かな慕情へと塗り替えてしまったのだろう。
どうか悟らないで。
3.
用意されたホテルの部屋に戻ったあたりで、携帯に
から短いメッセージが入った。
『さっきはごめん。もし良かったらまた飲みに行こう』
俺はどう返信すればいいか考えあぐねて、良い言葉など思い付かず「気にするな」とだけ返した。返事はなかった。
シャワーを浴びて濡れた髪を軽く拭きながらベッドサイドテーブルにビールの缶を置く。
と一緒に居た時に既にいい具合の量を嗜んではいたが、そんなものはもうすっかり身体から抜け出ていた。ベッドに腰掛けてプルタブを開け、一気に呷る。慣れた苦い味が口内に広がった。
の泣き顔が頭から離れない。何度思考を巡らせても原因に至ることはなく、謝罪をしようにも原因が不明のまま事を行えば口先だけになってしまいそうで躊躇われる。いっそのこと思い付く限りの罵詈雑言をぶちまけられた方がマシだ。何も言わず逃げられてしまっては対処のしようがない。彼女の感情の推察は、他の人以上に難しい。掴んだ、これは確実だ、と思っても実際にはその影にすら触れられていない。そんな時
は、本当に女の心が分からないのねと笑う。女というか、お前の心が分からないんだ、俺は。
何故こんなにも彼女のことが気にかかるのか。何故理解したいと強く望むのか。その答えを、俺はずっと前から知っていた。
「お前のことを、義姉のように思っている」
口に出してから激しく後悔した。兄の不手際のせいで少なからず傷付いたらしい彼女を慰めることを優先しすぎて、後に引けなくなってしまった。お前が好きだと伝えられていたらどれだけ楽だっただろう。彼女に会う度、考える度、俺の心は占領されていく。
「私のことを、遂に一度も義姉さんとは呼んでくれなかったわね」
兄と再び会うことが叶った時に
が言った。
言葉は毒に成り得る。時間をかけてでも確実に俺の脳を蝕んでいくだろう。もしお前を義姉さんと呼んでしまったら、感覚が麻痺した俺が、脳裡でひそかに愛した
を、うっかり殺してしまうかもしれないと思ったんだ。
兄の時は何とか苦痛に耐えて、寧ろそれを糧にした。だが、もし彼女が離れていったら。
恐らく俺は本格的に駄目になる。
俺は携帯へ手を伸ばし
へ食事の約束を取り付けにかかる。彼女が先に、また飲みに行こうと提案したのだ。それはつまり、会って話をする機会を与えられたも同然だ。気まずさなどに構っている暇はない。踏み込んでしまったのなら少し離れればいいのだ。深い後悔に落ちる前に。
俺達は話をしなければならない。
待ち合わせの時間より10分早く着いたと思っていたが、何故か既に
はそこにおり、俺を見つけると小さく手を振った。そして俺が何か言う前に、たまたま早く着いただけだと説明される。俺はそんなに時間を気にしているように見えるのか。
「仕事なら一時間前に着いているのも珍しくない貴方が、何を言ってるんだか」
が笑う。それもそうだなとつられて笑えば、彼女はきまり悪そうに昨夜のことについて謝罪した。
「怒っているかと思ってた」
「いや、怒ってはいない。混乱はしたが」
「予測不能且つ理解不能だったでしょう」
貴方には。
彼女が言外にそう続けているように思えて胸がざわつく。
「ごめんなさい。もうしないわ」
「怒っていないと言っただろう。もう謝る必要はない。ただ、理由は知りたい…俺が何かしたのか?」
「情緒不安定だっただけよ。お酒も飲んでいたし」
「それは、俺のせいか?」
「ルートヴィヒのせいじゃないわ。心配しないで」
本当に申し訳ないといった風に
が息を吐いた。彼女は項垂れているようだった。その小さな肩に触れようとして、気付かれない内にやめた。俺には非がないと言って庇ったが、本当の理由を代わりに差し出してくれるわけではなかった。故にそれさえも疑わしくなってしまう。
「なら、どうして」
「ルートヴィヒ。迷惑をかけたのにも関わらず、私を心配してくれているのは有難いと思う。けれどそれ以上は言えない」
「俺はお前のことが分からなくて、困ったんだ」
「……分からなくても困らないよ。貴方は優しいから……私が私らしくなかったから」
「それは、違う」
咄嗟に否定してしまった自分に慌てる。だが発言に嘘はなかった。だからこそ余計に狼狽する。すると
が彼女の中の張りつめていた何かを溶かすように、ふっと笑みを零した。伏せられた目を縁取る睫毛が濡れているように見えたのは、気のせいだろうか。知らぬ間にそれに見惚れてしまい、短い時間だったはずだが動けなかった。このままでは、彼女にまた不要な気持ちを持たせてしまう。
あの時のように。
「ありがとう。嬉しいよ」
「いや…違うんだ
」
「いいよ」
「いいや良くない。心配するだろう」
「いいよ。そんなにやわじゃない」
「…心配くらいさせてくれないか」
子供を諭すように請うと、深みのある瞳と視線がかち合う。初めて見た時森のようだと思った。入り込んだ者を奥へ奥へと誘って永遠に返してくれない黒い森。成程、これは確かに比喩ではないのだなと知る。
少し距離を詰めると
の身体に僅かに力が入ったのが分かった。しかし拒絶の色は見られない。俺は彼女の優しさに付け込む。
「要らないと言わずに、受け取ってほしい」
情けないくらい遠回しな始まりだ。だが今は酷くても、次の一手のために、彼女が口を挟めなくなればそれでいい。
「
、お前が好きだ」
が目を見開く。野外の喧騒の中、二人の間には沈黙が生まれていた。言葉の意味を図りかねているのか、あるいはきちんと伝わっていてその上で逃げ道を探しているのか、彼女は何かを静かに考えていた。問い返すのでもなく、赤面するでもなく、はたまた受理して返事を与えてくれるわけでもなく。
の反応は俺の予測の外側の事柄であった。彼女は俺の理屈っぽい思考システムをかき乱す天才だ。
「何も言わないなら、俺の都合のいいように解釈するが」
「……私も言いたいことがある。言ってもいい?」
「…ああ」
が俺を真っ直ぐな視線で射抜いた。それだけで俺は簡単に心臓を握られてしまう。息が、詰まる。目の前には何故か泣きそうな
がいた。
「全部貴方のせいよ……家族ではなく他人のままでいたら気付かずに済んだのに」
「…そうか。では俺の責任だな」
「気付かないでほしかったんだけど、もしかして私、感情がだだ漏れだった?どこで分かったの?」
「……いや、まったく。恐らく俺が先だったんだ」
「そんなはずは、」
「あるんだ、
。何故なら俺は、お前を義姉と思ったことなどないからな」
言ってしまってからまた同じ自己嫌悪が生まれた。俺はいつになったら学ぶのだろうか。誤解を生んでしまったと思ったが、
はいつぞやの俺の過ちの時とは違う、困ったような笑みを見せる。
「嬉しいわ。義姉さんと慕われるより、ずっと」
彼女の白い手が俺の、手入れのされていないそれに触れる。皮膚の上を滑るだけで、囲った見栄の壁が崩れ、ぬくい内側が
へ流れ込んでいるようで目も当てられなかった。
ままごと
2021.1.17
独 夢小説企画 Deutschland! 様 提出
(2019.1.31)