請われてしまえ
請われてしまえ


思い出になる前に目に見える証拠と実感が欲しかった。相反する性が肉体だけでなく曖昧な精神で繋がることのできる奇跡と温もりは、まるでメルヒェンのようで興奮する。子供の頃は周りの大人に本を読んでもらっていたっけ、そして私が少し大きくなると、今度は読んであげる側になった。相手は大体ルートか近所に住む子供達だ。ルートは絵本なんて、という年だったけど大人しく聞いていたと思う。読み手が私でなくギルベルトの時は尚更だった。本当はもう少し難しい本の方が楽しいのだろうけど、彼の中で兄に対する敬意とか遠慮なんかがあったんだと思う。それとも甘えたかったのかしら。どちらにせよ彼はとても良い子だった。私はそんな二人の姿を見るとかつてのアーサーとアルフレッドの影を感じて切なくなったりもした。まあ、喧嘩別れの形で離れたアーサー達と違って、ギルベルトもルートも仲が悪くなることもなく互いに上手くやっている。寧ろギルベルトがルートばかり構うから私の方が嫉妬してしまう始末だった。ギルベルトは意外と一途なので浮気のにおいすら感じたことがない。その代わり弟のことは酷く可愛がる。私には兄弟が居ないから分からないけど、ルートが大事なのは私も同じだったから、だから、ギルベルトに賛同した。それだけだ。


「ルッツを甘やかすな、上司に歯向かうな、俺のことを顧みるな」


彼が彼らしく禁止事項ばかり口に出すので、反抗心から返事をしないでいた。彼は舌打ちすると皺の付いた紙の束をケースに詰め込んでそれを私にぽんと投げる。凄い量だったせいか紙なのに重い。中身をちらりと見たが全部ドイツ語で私にはよく分からなかった。


「せめて英語にしてくれないと困る」
「お前は読まなくていい。そのまま上司に渡せ」
「どうして?私が女だから?それとも私の国に主権がないの?」
「面倒くせえこと考えるな勘違いにも程がある」


まるで自分だけ蚊帳の外に追いやられているようで不愉快だった。私だって銃を握れる。首都から大分離れた村に住む何も知らないか弱い娘じゃない。スカートでもドレスでもなくて、地味な軍服と黄ばんだ包帯が似合う女だ。戦いは終わったけど、人間の争いはまだ終わらない。血のあとはまだ消えない。


「ね、私らしさって何だと思う?」
「あ?」
「ギルベルトが私を上手に扱ってくれないから、最近自分が分からなくなるのよ」


よく言えたものだと思う。ついこの間まで愛を語り合う暇すらなかったのに。人のために懸命に走り回る彼の背に隠れていたというのに。ルートの次に、守られていたというのに。
ギルベルトは作業をやめて私の手を引くと書斎を出て隣の寝室のドアを開ける。ベッドの脇の大きな本棚の端から古い本を取り出すとそれを私に押し付けた。そしてこれも持っていけという。だから、ドイツ語は分からないと言ったはずだ。


「絵本だからお前でも読める」
「馬鹿にしてるの?」


ぱらぱらと中身を確認すると、懐かしいタッチで確かに見覚えのあるシーンが着色されている。私は表紙を改めて見た。成程、ヘンゼルとグレーテルか。でも何故こんなものを私に。


「Schneewittchen, Rotkappchen, Aschenputtel...他にも色々あるけどな、お前にはこれだ」
「何を言ってるのか分からない」
、お前はグレーテルになれ」
「……ああそう。よく分かった。悪い魔女をかまどへ突き飛ばすのは私の役目だと言いたいのね!お望み通りそうしてやる!ギルベルトは黙って魔女が提供する甘いクーヘンでも貪っていればいい!」


私の沸点は争いが始まってからずっと下がりっぱなしで、些細などうでもいいことですぐに爆発するようになっていた。情けないと思うけど、今の私ではどうすることもできない。私は重いケースとヘンゼルとグレーテルを持って階段を転びそうになりながら駆け下りて家の外に出た。ドアのずっと向こうに部下の車が迎えに来ていたのですぐに後部座席へ滑り込む。ぎょっとする運転席の部下に早く車を出すよう命令して、私はケースを足元へ置きその上に本を乗せた。気付いたらぼろぼろと涙を零していた。化粧が落ちて大変なことになっていたに違いない、証拠に部下が凄い顔をしている。私は走り去るギルベルトの家を睨んだ。勿論、ギルベルトは送りにも来なかった。

それから取るに足らないくらいの月日が流れた。取るに足らないと言っても私達からすればの話であって、その取るに足らない月日の中で部下も上司も何度も入れ替わっていった。街や風景や人々も変化していき、やはり何もかも昔のままなのは私達くらいだった。
私は時々、ローデリヒさんに呼ばれて彼の家に遊びに行くことがあった。彼はその都度、遠いところからよくいらっしゃいましたと顔を綻ばせて、美味しいコーヒーと甘いトルテをご馳走してくれた。彼とは他愛無い話をした。急速に伸びているルートの様子はどうだとか、菊と上手くやっているかとか。そして彼は時々、ぼんやりと私を通して他のものを見つめていた。他のものが何か、彼と似た境遇にいる私にはよく分かった。彼が私を通して見ているのはエリザベータだった。彼は随分会っていない彼女のことを思っていた。私はエリザベータと特別仲が良かったというだけの、彼女と性別以外の何の共通点も持たない女だったけど、それでもローデリヒさんは懐かしそうに私の中のエリザベータを見ていた。私はそれが嫌ではなく、寧ろ私もローデリヒさんを通してギルベルトを見ていたので、お互いに欲を上手に昇華していた。似ても似つかないローデリヒさんの中のゲルマン性からギルベルトを見つめていた。

彼から貰ったヘンゼルとグレーテルは読まずに本棚に眠らせた。見るだけで辛かったし、またすぐに会えると思っていたからだ。

さらに月日が流れてついに彼と再会できる日が来た。ローデリヒさんは既にエリザベータに会ったらしい。私は急いで飛行機で現地に向かい、流れ出てくる人々の隙間を逆方向に走った。


「ギルベルト!」


古い色の古い形の服を来た彼がもったいぶってゆっくり歩いてくる。私は息を切らしながらギルベルトの胸に抱き着く。ぐえ、と変な声がした。


「いってえよてめえ何持って、」


本が彼の後頭部に当たったようだった。私は腕を緩めてそれを手渡すと、彼が驚いたような顔をした。


「貴方と別れてから、私はずっとグレーテルだった。でもね、私は童話の中の女の子じゃなかったのよ」
「…文学的な話か?」
「グレーテルはずっと昔から大人だったの」
「は…じゃあ魔女は見逃してやったのか」
「違うわ。魔女と思しき奴は、皆かまどに蹴飛ばしてやったのよ」


ギルベルトは上手な称賛の口笛を吹いて笑う。彼のものは何もかも古臭いけど、徐々に変わっていけばいい。
私はやっと、スカートの似合う女になったのだ。



2015.6.6
title:シンガロン