渇望と呼ぶには
いぬぼく:御狐神 2012.5.14
title:確かに恋だった
できるだけ音を立てないように部屋を出て鍵をかけた。時刻は午後八時を回った所で、マンションの住人達は皆夕食を終え各自部屋に戻っているらしい。休みの前日なら遅くまで起きている人もいるが、今日はそうではない。先程まで騒がしかったラウンジにも、今はコックとその息子さんしかいなかった。彼らと別段親しい間柄でもないし、私が一人前を通っても気に留めないだろう。問題はラウンジに向かうまでで、もし誰かに会ってしまったら御狐神くんに通報されてしまう。通報というのは大げさな表現でもなんでもなく、心配性で独占欲の強い御狐神くんにこのことを知られてしまったら、私の希望なんて彼の柔らかい微笑みで一蹴されてしまいそうだから。
こんな時間に彼に内緒で、しかも一人で出かけるのは勿論初めてだ。御狐神くんに反対されるのが分かっているから、こっそり出てきた。買い物に付き合わせる申し訳なさよりも、彼に一緒に来てほしくなくてこの方法を選んだ。朝早くや夜遅くだと目当ての店は開いていないし、昼間はほとんどの時間を彼と過ごしているから一人でなんて絶対行けやしない。とにかく、御狐神くんには絶対にばれてはいけないのだ。
幸い住人と鉢合わせになることなくラウンジまでたどり着き、無事外へ出られた。暖かくなってきたと言えど夜はまだ肌寒く意外と風も強い。手に持っていたカーディガンを羽織り髪を少し整えて歩きだす。
時々後ろを振り返っては御狐神くんが居ないかどうかを確かめる。前に無断で出かけた時は日中だったのにやんわりとたしなめられた。否、表情が柔らかかっただけで、言葉の節々は刺々しいものだった。しかも私を尾行(本人曰く護衛)していたらしく、私の行動を時間を追ってつらつらと語りだした時は戦慄した。結局彼の病的な部分を更に浮き彫りにしてそれは終わったけど、逢魔が時でなかったからあれで済んだのだと思う。今見つかったら、本当に自分の身を案じなければならない。
まるで御狐神くんが怖い怖い怪物のようだ。従属と束縛を同時に遣り遂げる金と青緑の瞳を持つ怪物は、私を優しく捕食する。甘美な囁きに絶対に勝てないのは、捕食されたら最後抗う術など自ら放棄してしまうから。
考え続けてつい行為の最中のことまで思い出し、一人で恥ずかしくなる。火照った頬を冷やすように両手をあてて、早足で敷地の外へ出た。
「さまは僕との約束を違えるのですね」
聞き慣れた低音に、恐怖で振り返ることができない。やはりお約束の展開になってしまうのか。動揺しているのを悟られないよう、小さく息を吐いて気持ちを整える。
「さまは僕との約束を憶えておいでですか?」
「…御狐神くんに行き先を告げること。夜出かけたい時は必ず声をかけること」
「それで、さまは今何を?」
駄目だ、平常心ではいられない。
言い方こそ普段と同じだけど、纏うオーラから怒りが滲み出ている。そんなの顔を見なくても判るくらい伊達にパートナーをやっていないし、だからこそこの後の展開を容易に想像できた。そして、それが言葉で表そうにも表せない程恐ろしく、疲れ果てるものだということも。
「何度も申し上げているはずです、この時間帯が我々にとってどれだけ危険であるか…ご実家にいらっしゃった時だって言われてきたでしょう?そうでなくてもさまの美しさに普通の人間も魅了されるというのに」
御狐神くんの足音がゆっくり近付いてくる。
「…御狐神くん、私が買い物に行くって言えば付いてくるじゃない」
「言葉の意味を理解していらっしゃらないのですね。貴女をお護りするために僕がいるというのに…。買い物だろうと何だろうとさまがお申しつけ下さるのなら何でも致します」
「ひ、一人で、行きたかったのよ…」
「……何故…僕はもう不要ということですか?」
「違う…っ」
足音が背後でぴたりと止まり、彼の影が私を覆う。ばくばく煩い心臓に胸が一段と苦しくなった。
けれど彼は何もしてこなくて、御狐神くんの様子を伺うようにほんの少しだけ視線を送ると、涙目の彼と目が合った。しまった、と思ってからではもう遅い。腕をひかれて華奢なその身体へ引き寄せられる。
「僕を捨てないで下さい、さま……」
捨てるはず無いのに、私がほんのちょっとでも彼から離れようとするとそんな風に懇願する。背中に回された彼の腕が、掌が、指が、私を繋ぎ留めようと、音もなく藻掻いている気がした。とても寂しがり屋な御狐神くんは遠回しにやんわりと、けれど切実に訴えかけてくる。これは自意識過剰なんかじゃない。
顔が見えなくても、判る。
かわいそうなんて比じゃなかった。辛い思いを散々してきてやっと手に入れた平穏を、私がぶち壊したくない。同情は論外、ただ彼の側にいつまでも居てあげたい。皮膚に食い込む彼の指が、彼の孤独と切望を私に植え付ける。だけど、彼の意識下でない所でそれはコントロールされているらしく、問い詰めてもわけが分からないといったように微笑むだけなので責める対象にはしない。私よりも大きい手で小さな私に縋つく彼は、SSにしては頼りなく恋人にしては少し重い。そこがとても切なくて愛しかった。
「ごめん御狐神くん、ごめんなさい…」
「さま…」
「あのね、その………下着を買いに行きたかったの」
「そうだったのですか…。では、明日一緒に行きましょう」
「御狐神くんそれはさすがに…は、恥ずかしいから一人で行きたい」
「夜になれば全部見るというのに?」
「御狐神くん…!」
「照れる貴女も可愛らしい…」
御狐神くんはまるで腫物に触るように私の頬を優しく撫でる。彼の指先に触れられた箇所は徐々に熱を持ち始め、忘れがたい記憶として私の身体に蓄積されていく。ずっと孤独だった彼が、彼以外の誰かの中にちゃんと“彼自身”として存在していられるのならとても嬉しいし、その誰かの中に私がいるんだと一人で静かに舞い上がっている。彼の寂しさが少しでも薄れるなら、これ以上なかった。
御狐神くんがそれを知ったら、どんな風に応えてくれるのだろう。