潔癖
朝食はルームサービスを頼んだ。綺麗でお洒落な盛り付けをまじまじと見ていると視線を感じ、そちらの方へ目をやると穏やかに笑うルー君がいた。向かい合っている彼から私へ、柔らかい恋情が流れてくる。享受しつつも、私は後ろめたさでそれに向き合えないでいた。

この男が私のことを好きなのは明白であった。自意識過剰かと初めは思ったが、私に対する挙動と私以外の女に対する挙動の色があまりにも違っていて、ああ彼は恋をしているのだなと周りが簡単に感づいてしまえるような、微笑ましい感情だった。
昨日私は偶然にも彼と二人きりになって、一緒に食事をして、興が乗ったので一度抱かせてやろうなどと傲慢でふしだらなことを思い付いてしまった。暫く恋人がいなかったので、欲求不満でもあったのだと思う。
私の提案に彼は狼狽えたが、同時に照れてもいた。非童貞の初めてのセックス。相反する表情と反応。近くにラブホテルがなかったので灰色の普通のホテルの前まで彼の手を引いてやると、覚悟を決めたのか彼は繋がれていたその手を握り直して、自分の意志で私を掴んだ。その様子に不覚にもときめいてしまったけど、そこまでは良かった。
部屋の鍵を閉めたのを確認してからキングサイズの高級そうなベッドに二人で乗って、彼は私をそっと抱き締めた。私は先程の予想外の出来事のようにならないよう、心の準備をした。彼からは優しいにおいがした。
もう待てないといった風に彼が性急に唇を重ねてくる。流されるように口を開いてより深く交わった。無味の唾液が舌を介して私の口内に落ちる。まるで一つの生き物のように不規則に、自由に動いていた。
卑猥な水音を一度大きく鳴らした後、彼はゆっくりと唇を離す。そして恥ずかしそうな顔で、再び私に口付けた。触れられているすべてから甘ったるい蜜が送られてくる。準備したはずの檻が簡単に壊れていく。

あ、だめだ、と、本能が警鐘を鳴らした。
気持ちいいとか合わないとかそんな物理的な感想よりも早く私に訪れたのは、ある危機感だった。このまま彼に最後まで食されたら、私はきっと彼のものになってしまう。身体も心も、頭から爪先まで余すとこなく、拘束具の一つもなしに、彼の奴隷になる。突然地面が抜けて恋心への墜落が始まった。重力に抗う術はどこにもなかった。
あまりにも高い所だったので怖くてもがいたけど、掴むことのできる場所はない。落ちていく最中にも、ルー君は私を優しく愛した。そうするのが当前だと言わんばかりに丁重に扱った。私はさながら彼の宝物だった。それが新しい絶望を生む。
私の綺麗でもない肌を舐める彼は本当に美しい。縋るように彼の髪に触れると、彼はふっと息を漏らした。

「寒くない?」

頷くことしかできない。
怖かった。彼の持っていた好きを、うっかり私まで食してしまったかのようだった。彼の気持ちは痛いほど伝わっていたから、それが移ってしまったのだと思った。けれど、ちがう。これは違う。私は少し前まで身体を差し出しただけで、心までは傾けてさえもいなかった。


「……あ、ごめ、」

混乱して女らしい反応をしていなかったことに少し焦るが、身体はきちんと準備を終えていた。今までの恋人との行為中は能動的にもわざと感じていたんだと気付いて震える。無意識だった。私はそれなりに恋のあれそれを楽しんでいたようだった。
大した可愛らしさのない私を愛でて、彼は出来上がっていた。
遊具に似た揺れの最中は無重力の感覚を味わった。冷たいものが頬に滴るので何かと思えば、彼の汗だった。彼は快感を散らすように腰を振って私を追い詰める。雄の顔だった。はしたない、好きが加速する。気持ちがいいからでは、ない。知らずに胸に隠していた脆い部分へ、情が降り積もる。圧死の恐怖が芽生えた。近くの心臓をも巻き込んで、私は多分生きていけなくなる。堪らず手を伸ばすと彼がそれを捕えて支えた。私は必死になって彼に縋る。女の臓器で受け止めた快感が全身に光の速さで伝播する。獣の感覚が理性を侵食していく。考えがどこにも及ばない。好き。気持ちいい。好き。好き。気持ちがいい。好き。
死にたくない!



、お皿」

彼が差し出している皿を慌てて受け取ったせいで落としそうになり、ルー君が心配しつつも笑った。訪れた朝と穏やかな空気。現実に引き戻された私は、いつもより豪華な朝食を彼と共に摂る。味付けの薄いそれらを咀嚼し飲み込むと、ルー君が徐に口を開いた。

「この後、どうしようか」
「……行ってみたかったとこがあるんだけど」
「うん」
「ちょっと、遠いかも」
「車借りようか」
「その前に、着替え」
「うん。買いに行こう」

先に食べ終えたらしい彼が洗面所へ入ったのを見送ってからふと視線を目の前に戻すと、彼のカップに少しだけコーヒーが残っていた。私は洗面所の方を一瞥すると、そのカップの中身を口に含んで、そのままゆっくり飲み込んだ。不純物が一切混じっていないストレートな味が広がる。小さく、苦い、と独り言た。再び彼の所在を確認し、カップを持つ手を替え彼の飲んだ側に口付けて、目を閉じる。薄く開けた唇から舌を出して、カップの縁を舐めた。気持ち悪いくらい好きになってしまった。私は一度死んで、これからもまた、死に続ける。
怖くないかといえば嘘だ。

「順番が逆になったけど、」

ホテルを出た時彼が申し訳なさそうにそう言ったので、私は彼の唇を、彼が使ったカップにこっそり口付けた時のように食んだ。同意も予告もなかったので時間が経つにつれ背伸びする足が攣りそうになったけど、彼がやっと私に合わせてくれたので無事だった。
好きだよ、そう言わせまいと口を塞いだのに構わずその先を告げる酷い彼に、私も、と嘘を吐く。真っ直ぐな彼は勿論、私のことを昨夜限りにはしなかった。私にとっては喜ばしく、同時に悲しくもある。彼は昨日まで私に寄越していた熱量と同じものを、今度は真正面から正式に与えることを選んだ。際限なく膨らんでいく愛情の苦い一部を彼はきっと知らない。私だけが、捧げるには相応しくない過程を不本意にも辿ったのだ。
潔癖
2019.2.7