
額に口付けてはくれないか
2019.2.15

俺は賢い子供の振りをしながら、大人しく彼女に治療してもらっている。自分の行いを反省して、犯した間違いを恥じて、いかにも素直で真面目でまっとうな個体であるかのように、酷く穏やかな顔で目を閉じていた。そうしていないと、何も悪くない彼女に半ば八つ当たりの形で鋭い視線を送ってしまいそうだった。そんなことをすれば彼女は傷付いてしまう。言動に反して、この女性は壊れやすい。それこそ俺のこんな怪我など可愛いものと思えてしまうくらいに。
何だかんだ俺は運が良いのだ。いや、敗戦続きで貧乏くじばかり引きたがる俺の上司の手腕を見れば幸運には程遠いと絶望してしまいそうにはなるが、今もこうやって命を繋ぎとめまた彼女との再会が果たせている。愛しい家族を置いて、限りある命をさらに削って志半ばで倒れていく俺の一部たちのことを思えば、何があっても生き残らねばならないと強く自分を保っていられるし、憎しみや悲しみを餌としてこの身体は極限まで動いてくれる。命に代えても何かを守りたいだとか、そういった美しい意志はあいにく持ち合わせてはいないが、だからこそ冷徹な化物として存在できる。そもそも俺が後で俺の一部たちが先なのだ。彼らが先にいて、俺が後なのだ。
非情でいるのにも慣れしまった。
「あの時はあれがベストだったと私は思う。あんまり自分を責めないで」
「分かってる。敵はもっと酷い有様にしてやったんだわ。良い結果を出したんだから、価値はあるだろ」
「一つ、我儘を言うね」
「…は。お前の我儘は我儘の内に入らないんだわ」
そう答えるのが礼儀であり、愛でもあった。
「自分一人が傷付くような真似は、やめてほしい」
「俺にそういう特殊性癖はないんだわ」
「真面目に言ってるのよ」
「俺に、そういう特殊性癖はない」
「……」
「そうだろ?お前がよく知っているはずなんだわ」
「私、ブル君がいつか壊れるんじゃないかって心配」
乾いた息が口から漏れた。壊れる、俺が?それはお前だろう。しかし
は、今にも泣きそうだった。俺は途方に暮れる。どうしろというんだ。女を泣かせて喜ぶ趣味だって、そういう性癖だって、ない。
はまだ何か言いたげだったが、彼女の方が俺よりもずっと大人だったので、口を噤んで曖昧に微笑むだけだった。

ぐずぐずと泣く彼女は普段とは別人のようだ。華奢な腕で何度も目元を擦るので、目の周りだけ赤く腫れている。しかし涙は止まらない。その内、ふやけた皮膚が些細な刺激でぴりぴりと剥がれ落ちてしまうのではないか。俺のくだらないプライドのように。
知らない間に俺は重大な過ちを犯していた。俺の読みが甘かった。すべて俺のせいだ。たくさんの人間が神の元へ行った。俺の細胞が、身体の一部が、抗えない力で引きちぎられた。だが、痛みなど感じてはいられない。俺だけは、動かなければ。そう思った矢先のことだった。
彼女はからからの声でずっと俺の悪口ばかり吐いていた。馬鹿の一つ覚えみたいに「だから言ったのよ」と繰り返す。俺の身体に無意味に触れる
の指先は薄汚れていた。
彼女は俺の過ちを責めているようだった。自分を責めるなと俺に言ったことを忘れて、ただの女になってしまっている
は、この混乱の最中にはあまりにも平凡だった。平凡で、酷く心地いい。俺は彼女の健全な愛撫に応えようと彼女の名前を呼ぶと、その目からはぼたぼたと大粒の涙が落ちて、ああ、やり方を間違えたと後悔する。
「…はは、泣きすぎなんだわ」
「貴方はいつもそう。人の気も知らないで」
「お前、そんなに俺のこと好き?」
「最低。嫌い」
「言ってくれなきゃ分からん」
「嫌いって言ってるじゃない…」
「
」
出来るだけ優しく彼女の名前を紡いで、手を伸ばす。すると彼女はなんとも言えない顔をして、それから俺に身を委ねる。こんな状況で格好つける暇もなく、俺はただ飴を舐めるように彼女にキスをした。
、俺はもうあの時には既に力があったんだ。弱い振りをしていた方が都合が良かったからそうしていただけだ。俺は確かに運だけはいいが、今回もまた生き残れたのは運だけではない。俺の一部のために、お前のために、生き残る術を模索した。上司の扱い方だって心得た。お前の全てだって背負うことができる。
「これ以上は、駄目」
ふいに
の声が俺の口内に響いて、鼓膜に届く。二人の間にだらしなく繋がった唾液の糸が虚しく切れた。
「ブル君」
「好きだ」
「うん」
「好きだ、
」
「うん」
が俺の頭を抱え込んで抱き締める。彼女のにおいが俺の皮膚に染み込んでいく。先程まで彼女を食んでいた浅ましい唇を彼女の肩口に擦り付け体温までも取り込もうとして、口から息を吸った。しかし侵入してくるのは冷えた空気ばかり。
の細い腰に縋れば、彼女の腕の力が強くなって骨が軋んだ。
本当はもう少しだけ、子供でいたかった。子供らしく無邪気に、後腐れなく、それでいて狡猾に生きていたかった。子供の特権を振りかざして彼女を素直に愛してみたかった。大人を夢見ているくらいが丁度良かったのだ。国でいることの矜持や責任だけじゃなく、誰のものかもわからない、人間のそれに近い輪郭の、この心の思うままに大切にしたかった。
愛情から生まれた庇護欲というより、独占欲から派生した焦燥だ。いつか彼女が言ったけど、壊れてしまうのはやはり彼女の側だ。俺はとっくに
を特別に見ていた。
が、置いていかないでと願いを吐いた。いやに耳に残る声が俺を揺する。だが、俺は聞き入れてやることはできないのだろう。たとえ彼女が平凡だったとして、俺が特別な形をしている限りは。俺の一部たちが先で、俺が後だから。そして彼女も恐らくは、彼女の一部たちよりも後なのだ。何も答えない俺を不安がって
が俺をさらに閉じ込める。壊させはしまいと躍起になって。まるで、俺の今際のようだ。