誰もが幸せであるために
誰もが幸せであるために


よく眠りについている。
俺はちょっと横になろうとベッドルームへ行ったけれど、ごろごろしているうちにそのまま眠ってしまったみたいだ。寝るつもりのない俺は変な体制で夢の中へ行って、普段寝る時にはしない方向に首を傾けたせいで生じた痛みに目を覚ました。その、夢の中に行っている間には来たようだった。多分、夜ごはんができたよって、呼びに来たんだと思う。
の作るごはんは美味しい。お腹が小さく鳴いて、お腹のすいた感覚が鮮明になってきた。リビングにはきっともう準備されていることだろう。
けれどを見ていると起こすことも躊躇われた。最近、寝れていないようだった。俺がいつも隣に寝たいと我儘を言って、そうしてもらうからだろうか。
それでもやっぱりお腹が空いて、極力ベッドを揺らさないようにそっと降りたつもりだった。しかしは起きてしまった。すっかり眠っていた彼女が起きたことよりも、あんな小さな物音に敏感に反応する精神に驚いた。



「……」
「おはよう、お腹空いたんだぞ」
「アル…」


俺がのほっぺにキスすると、彼女はぼんやりと、寝ちゃったのかあ、アルのせいね、って言って微笑む。


「やだ、もう外暗くなってる」
「ああほんとだ。早くご飯食べよう」


寝惚けたかわいいの手を引いて歩き出す。後ろから柔らかい笑い声が聞こえて幸せな気分になった。




「美味しい。、これ凄く美味しいよ」
「落ち着いて食べなさい」


俺ががっついている目の前で彼女は静かにスープを口に運ぶ。自分との差に少し恥ずかしくなるけどそれよりも空腹が俺を急かした。いいなあ、は。俺も大きくなったら彼女みたいに欲を制することができるようになるだろうか。いやでも、食欲は人間の三大欲求の一つだぞ。簡単に抑え込めるのか?無理な気がする。あとの二つは、睡眠欲と性欲だけど、眠いのに寝ないなんて、俺に可能なのか?性欲はまだよく知らない。でも大人はそれが好きらしい。もしかしたら、三大欲求の中にも序列があるのかもしれないぞ。仮に性欲が最強だとして、どうしても食べられないあるいは眠ってはいけない時には、性欲を満たせばなんとかなるのかい?その前に、性欲って結局何なんだろう?


「ねぇ
「なに」
「性欲ってセックスのことなのかい?」


瞬間、ぱしりと頭を叩かれる。


「Oh,なんだい!痛いじゃないか」
「わざとじゃないんなら、その知識をあなたに植え付けた犯人は誰なの?」
「なんだ、やっぱりセックスのことか」
「食事中に下品なことを言う紳士はいないわ…ほんと、子供で良かったわね。もし大人の男が食事の席でこんなこと言ったらどうなるか分かる?」
「うーん…殴られると思うぞ」
「おしい。相手が女性なら縁を切られるわ」


俺は勿論それが下品なことくらい分かっていた。でも、だって俺の中の知識が元は誰のものであったのか検討がつかないはずがなかった。だから少し意地悪した。あたかもセックスが食事中の話題には相応しくないことを知らない子供のように振る舞ったりして。いや、けれど、セックスや性欲については本当に詳しくは知らない。唯一分かるのは、大人たちは時にそれに金や時間や名誉なんかを掛けたりすることだ。
そんなに大切なものなのだろうか。せっかく稼いだお金よりも、宝よりも、時間よりも、肉親よりも?
相変わらず俺の頭には霧がかかったままだ。


「俺、性欲ってものが分からないんだ」
「破廉恥ね」
「はれんちってなんだい?」
「下品ってことよ」
「じゃあ、性欲ってなんだい?」
「セックスがしたいって気持ちのことよ」
「セックスは楽しい?」
「はい、この話はおしまい」


まだスープの残っている俺の皿を取り上げ、おかわりを勝手に継ぎ足す彼女の背中を見つめながら、今度こそ最後にしようと思った。俺は、もう子供じゃないぞ。


はそれが好きなのかい?」


最後にしようと思ったのが伝わったらしく、彼女は本日最後の制裁を俺に下した。さっきよりも力が少し強かった。


「もう食べないの?」
「お腹いっぱいだから明日にするよ」


らしくない言葉を吐いて、俺は頭を擦りながらベッドルームへ戻る。


ご飯の前みたいにベッドでごろごろする。食後は体が温まって余計眠くなる。冷たいシーツが心地よくて、でもまた眠ってしまわないように最善の注意を払う。頭を覆う霧も、一緒に払ってしまえればいいのに。

俺の脳内での話題は専ら食事中の話の延長線だった。性欲とは何か。というのも、俺は一度だけ肉親とも言える人たちのそれを目撃したことがある。俺がベッドに入って、何時間か経っていたと思う。何か音がして、その時丁度恐ろしい夢を見た俺は目を覚ましていたので、体を震わせた。何か、自分に見えない、感じ得ないものが、近くにいるかもしれない。途方もない不安に駆られ、俺の足は怯みながらも彼らの寝室へ向かった。誰かと一緒じゃないと眠れそうになかった。月の明かりも入らない日で、暗闇を半泣きで歩いていった。壁に体を密着させ、指を扉に這わせた。その物音は中から聞こえてくる。そっと開いて、一度閉め、また開いて、中の光景を凝視する。室内は廊下と同じように暗い。でもそこに広がる熱と水音と声に聞き覚えがある。絶対に忘れるはずのない、大切な人たちのもの。俺はの脚が持ち上がるのを見た。次いで、アーサーの大きな影。二次元的なアーサーの影は、質量を持ってを覆い隠す。二人の隙間がなくなったところで、彼女は声を漏らした。いたたまれなくなった俺は、再び扉を閉めて、もと来た道を戻っていった。悪夢と幽霊の恐怖は既になかった。しかし新たに出来てしまったのは、二人が遠くに行ってしまったような焦りと寂しさで構成された恐怖だった。俺は勿論声を殺してベッドルームへ戻った。でも泣いていた。自分の部屋のベッドで子供みたいにさらに泣いた。俺は泣きながら、自分の手を睨んだ。俺の汚い涙を拭うのには十分だが、と手を繋ぐと彼女の指は俺の手の甲をほとんど隠してしまう。

俺はセックスの存在を知っていた。でも無意識にとアーサーをその対象から外していた。二人が俺に寄越す愛は無条件にもらえるパンとスープだ。がアーサーに与える愛は、多分煙草みたいなもので、アーサーがに注ぐ愛は紅茶みたいなものだろう。私たちに家族はいないよ、国だからね。いつか、もっと小さい頃にが悲しそうに俺を諭したが、それよりも明確で辛かった。だって俺は、他人だからこそ家族になれるのだと知っているからだ。最高に裏切られた気分だった。


枕に顔を埋める。
ゆっくり、両腕を擦った。滑りの悪い服の生地に爪がひっかかる。微妙に伸びた糸を緩く弄ぶことで、蘇る恐怖を遠退ける。

ふいにドアが開いた。


「…ノックくらいしてくれよ」
「そんなことも言うようになったのね」
「君は俺を何だと思ってるんだい?」


俺は、もう。


「子供じゃないんだぞ」
「いつまで経ってもアルは子供よ」
「…まったく君は、母親みたいなこと言うね」
「似たようなものでしょ」
「人間でもないのに?」


瞬間、言わなきゃ良かったと後悔する。が泣きそうな顔をしたから。


「ごめん、
「そうよね…」
「え?」
「普通の人みたいに、感情があるのは辛いよね」


の腕が伸びてきて俺を包む。何か勘違いしている彼女は、優しく俺の頭を撫でた。ああ、確かに、俺達に感情があるのは辛いことなのかもしれない。俺のために一緒にネガティブになってくれているの中で、俺はやましい感情を抱いている。
は綺麗で優しくて、柔らかい太陽のにおいがする。


「…俺、が欲しいよ」


肩口に額を押し付けるふりをして流れる髪を食んだ。あの時みたいに声も音も殺して、細い繊維を歯で味わう。胸が尋常じゃないくらい熱く、唾液が収まらない。性欲はきっとこういう感じなんだな、と、あの日のアーサーを思い出しながら悟った。自制がきかなくて、ふしだらで、いくら与えられても欲しくて堪らない。

パンとスープの代わりに、彼女を食べてしまいたかった。


「私がアルのものになったら、アーサーは寂しがって泣くでしょうね」


予想通りの反応に俺は溜め息を噛み殺す。しゅわしゅわと音のない音をたてて性欲が冷えていく。なんてあっけないんだろう。
それに、もし俺がを自分のものにしたら、アーサーは俺を散々殴って蹴って半殺しにすると思うんだ。


「そんなことはないよ。アーサーはのことが大好きだからね」
「アーサーはアルのことも好きよ」
「うん、知ってる。でも、やっぱりが大好きなんだよ」


自分で言ってて悲しくなるけど、アーサーはのことを俺が生まれるずっと前から好きで、もアーサーのことを何世紀も前から好きなんだ。特にアーサーのそれは盲目的で、文字通り目に入れても痛くなんかないんだ。一番悔しいのは、が、その熱い翡翠の海にたった一人捕らわれているのを当たり前に受け入れていることだ。だからこそ、アーサーは俺がを奪ったら多分色々なところが崩壊してしまう。俺のこともいらないと思ってしまう。
だけど、やっぱりアーサーは俺を結局殺したりはしないんだ。優しくて甘い自称紳士は寂しがり屋だからね。


「ねえ、アル。私とアーサーのことママとパパだと思ってもいいのよ」
「親って柄じゃないよ、君たち」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんでもいいわ」
「なんだい急に。どうして?」
「いつでも頼っていいんだからね」
「……」
「アルももっと大きくなったらよく分かると思うけど、大切な人がいるっていうのは、本当に救われるのよ。そして誰かに愛されると、とても幸せなのよ。性欲なんて言ってられないくらい、心から満たされるのよ。私達はどう頑張っても家族になれないけど、人よりも長い時間愛されたり愛したりできるのよ」
「…うん、わかった」


言いながら彼女は微笑んでいた。口に含んでいた彼女の髪をやっと出すと、今度は俺が泣きそうになってしまった。決して彼女の言葉に感動したからではない。翡翠の海に捕らわれているは確かに綺麗だと納得してしまったからだ。
2013.9.23
title:シンガロン