彼の元に逃げてきてから、私は彼以上に彼の家のことをやってきていたつもりだった。平日の昼間は外で働いている彼に、家にいる間くらいは少しでも安らかに過ごしてほしくて、そして私の衣食住はそのほとんどを彼に依存しているという負い目から、積極的に家事をこなしていた。些細なことでも、ブル君が少しでも楽になってくれるなら喜んでその役目を引き受けた。
彼の額に手を当てて、溜息を飲み込む。何でもっと気遣ってあげられなかったのだろう。ここ最近忙しくて帰りが遅くなることが多く、疲れた様子なのは顔を見ればすぐに分かった。心配する私に笑って告げる「大丈夫」が、私のための嘘だということを今改めて理解し、望まない形で彼の優しさを噛み締めている。
ブル君が体調を崩した。仕事を休まねばならないくらいの熱がある。ここに来ても私にまだ「大丈夫」と言って、就業開始時刻まで待った後上司に電話をかけて、手から携帯を落とした。というより彼の手から力が抜けて、携帯がすり抜けていった。昨夜帰宅後に脱いだままハンガーにかけなかったのか、カーペットの上に丸まったままの彼の衣服が受け止めた携帯を、私が拾ってベッドサイドテーブルに置く。鼻の通りが悪いらしく、彼は口で息をしていて、余計に苦しそうに見えた。
冷蔵庫に冷却シートがなかったので、とりあえずタオルを冷たく濡らして彼の額に載せる。コップに水を入れて携帯の横に置きいつでも飲めるようにしてから、近くのコンビニに出かけた。スポーツドリンクと冷却シート、ゼリーを買ってすぐに帰宅する。
冷却シートを早く冷やしたいので冷凍庫に入れて、彼の顔を見に行くと、ドアの音に気付いたのか薄らと目を開けた。

「お水飲んだ?」
「いや…」
「じゃあ、今スポドリ買ってきたから、それ持ってくるね。水分取らないと」
「……暑い」

タオルケットを剥ぎ取らんとする手が力なく揺れる。結局彼自身の身体の上を滑って、目的は不完全に達成された。私は代わりに彼の手脚を布団から出してやり、熱による不快感の緩和を試みる。ブル君の肢体の火照りに、彼の辛さを想像して胸が苦しくなる。
彼を支えながらスポドリと氷を入れたコップを手渡すと、ちびちびと飲んだ後、氷に口付けた。倒れるように再び横たわると、氷だけが残ったコップに頬を寄せている。

「なんか食べたい?」
「雑炊。柔らかい米食いたいんだわ……鍋のシメに出て来るやつみたいな」
「……分かった。ちょっと待ってて」

弱々しく手を振って笑って見せる彼から逃げるように部屋を後にする。
後悔は繰り返すだけだった。ブル君がここまで体調を崩したことなんて、出会って今まで一度もなかったのだ。私がこんな状態で一緒にいることで負担をかけてしまっているのではないか。考えたくなかった不安を再認識している。

一歩一歩、前に進めたら。
そんな考えは甘いんじゃないか。

早く元の生活に戻るために努力しなければ。
そんなこと、私にできるんだろうか。

先日部屋の掃除をしていた時に偶然見つけたブライダル雑誌に、胸が締め付けられる思いをした。見覚えがないので、ブル君が買ってきて、私の目から隠しているつもりだったのだろう。表紙を飾る綺麗な花嫁が、こちらを見ている気がした。屈託のない幸せを当たり前に信じている一人の女性。心がどんどん捻じれていく。
幸福は、宗教だ。だから拠り所であるべきだし、側にあってほしかった。私はブル君が好きだし、彼と結婚したいけれど、歩みを止めては足元を見下ろしたり後ろを振り返ったりして、自分がそれに相応しいのだろうかと自問自答を続けている。だって夫婦になるって、好きという気持ちだけではどうにもならない。元気な時も辛い時も、彼を支えていける妻でありたかった。
彼以外なんて考えられないのに、自分が選んだ人に選ばれた喜びよりも困惑と不安の方が上回るのだから、私には色々と足りていないものがあるのだろう。

出来上がった雑炊を深い皿によそって持っていくと、彼がゆっくりと身体を起こした。いつの間にかマスクをしている。通勤用の鞄に常備しているらしく、今更と思いつつもベッドから這って出て取ったとのこと。私に気を使ってやったことだと思って申し訳なくなる。彼にお椀を渡してから、ベッドサイドテーブルの携帯の横に置かれた空のコップを見てはっとしてキッチンへ戻った。新しい氷とスポドリを入れて、再びその場所に置く。

「食べられる分だけでいいからね。食べたら薬飲んで寝よ」
「おう。しかし美味いわ。全部食っちまいそう」
「いいよ。…私も食べようかな。鍋にまだ残ってるし」

そう言いながらも重い腰は上がらず、普段よりも時間をかけて咀嚼するブル君を、ベッドの脇に座って眺めていた。

「……ごめんな。世話かけて」
「謝ることなんか一つもないよ。最近忙しかったんだもん。ゆっくり休みなよ」

笑ったつもりだったけど、上手くできたかどうかは分からない。ブル君が手を伸ばすので近付くと、一度躊躇う素振りを見せたが、結局私の頬を撫でた。

「まだ、熱いね。冷却シート、今冷凍庫で冷やしてるから。寝る前に持ってくるね」

「大丈夫よ」

流石にそれは、と私を制する彼に構わず、彼の赤い唇にキスをする。私の些細な仕草の傾向までも把握してしまっている彼に、愛おしさが果てなく生まれ、零れ落ちていく。離れた後にブル君が窘めたけど、私に風邪を移して彼が元気になるならそれでいい。きっと逆の立場なら、彼だって同じことをするだろうから。
2019.5.10