何年も前のことなのに鮮やかに覚えているのは、それだけ衝撃的だったからだ。最高学年になったのはいいものの、いつまでも変わらない人は少なからずいる。ギルベルトもその一人だった。中学生にもなって、エリザに子供じみたちょっかいをかける彼は阿呆でしかなかった。というのも、エリザが三年になってから急に女性らしくなった。男勝りの性格はそのままだったが、身体が丸みを帯び、ただ着ているだけだった制服のスカートがすこぶる似合うようになったのだ。本人はそれが嫌で仕方がなかったようだが、いつの間にか吹っ切れていて、その後くらいからギルベルトによるからかいが始まった。ただエリザのギルベルトに対する態度を見る限りでは、からかいに対して変に傷付いたりしてはいないようだった。二人の間で、何かあったのかもしれない。まあそれはともかく、私はギルベルトの浅いからかいの言葉にちょっとうんざりしていたし呆れてもいた。そして同じように、14ないし15歳になったはずの同級生の男子達が年齢にそぐわない幼稚な言動を見せる度に、男の子はどうしてこういつまでもガキ臭さが抜けないんだろうと、正直馬鹿にしていた。だから、私が気休め程度の発色しかしない安い色付きリップを付けて登校した時に、そのことに気付き、さらに先生に私を売るでもなく肩を竦めて困ったように笑った彼は、私の中では異端中の異端だった。
「女の子だねぇ」
ボヌフォワ君はそう言うと、ギルベルトに呼ばれてそそくさと私の前からいなくなってしまった。私はびっくりして茫然と立ち尽くすだけ。苗字で呼び合う程度の彼から、思ってもみないことを言われたせいだ。
そしてその時に私は知ったのだ。女になるという表現は、処女喪失の時だけのものではないことを。私の中の、生まれ持った雌の性質を擽る何かは、決して行為だけではないことを。
当時ボヌフォワ君には色んな噂があって、ふんわりとした言葉遣いをすれば、何となく彼がイノセントではないことは察しがついた。横に並ぶのはきっと綺麗な大人の女性なのだろうと私は頭の中で考えた。そんな女性への憧れが嫉妬に変わる頃には、私はボヌフォワ君のとりこだった。
だから高校が別々になってしまったのを知った時は、いかにして彼の連絡先を手に入れようかどんな時間にも思案したものだ。だけど結局私は彼のことを考えるのをやめた。今考えるとただの僻みだ。彼には素敵な女性がいるのだから、と何の根拠もないことを頭に刻み込んで、私を女にしたボヌフォワ君を過去の思い出にした。
しかし、大学生になって半年以上経ってから、私達は思いがけない再会を果たすことになる。
その日私は寝坊して、焦ったせいかいつもより濃くなってしまったメイクに若干しょげながら講義を受けていた。生理中は睡眠時間が長くなるのが常なので昨日は早く布団に入ったつもりだったけど、そう上手くはいかないらしい。血の気が引いているせいで顔が白く見えたのか、余計にメイクが濃い気がする。特にチークが。そんなメイクでも妥協したのは、今日は知り合いに会わないからだ。通学とたった90分の講義くらいなら仕方がない。
「…
?」
そんなこんなで気が落ちていた私は、グループワークで組んだ相手に呼ばれて、そうだけど、などと訝しむ感情を隠しもしない返答をした。
「やっぱり!久しぶりだね。というか同じ大学だったんだ」
「……ボヌフォワ君?」
次の瞬間、顔に熱が集中する。彼が私の正面で笑った。ああ、大人びた笑い方だ。相変わらずかっこいい。
「気付いてなかったんだ。酷いなあ」
「あー…久しぶりね」
「ね。ギルちゃんってば教えてくれてもよかったのに。高校一緒だったでしょ?」
「うん」
「あいつは変わらず阿呆だよね」
「うん」
「ははは」
穏やかな声色がくすぐったい。口元が緩む。彼は教授の方をちらりと見ると、目を付けられない内にと早速課題に取り掛かる。私も他愛無い話は一旦やめにして作業を始めた。気もそぞろだったが。
講義が終わると何とボヌフォワ君に次の時間は空いているか訊かれた。私は思考に及ぶ前に黙って頷いて、それから慌てて時間割を頭の中で組み立てて、今度は自信を持って空いてると答えた。
彼の隣を歩く私はボヌフォワ君の彼女に見られてもおかしくない。変な高揚と緊張で心臓が煩い。彼にも聞こえているんじゃないかしら。私は少しだけ不安になった。
「しかしまあ随分と綺麗になっちゃって」
恥ずかしくて何と返せばいいか分からない。いや、お世辞なのは分かっているけど、お世辞でも嬉しいものは嬉しいのだ。叶うはずのない一方的な恋慕を抉りだされた私はさながら命を吹き込まれたロボットのようだ。挙動不審で、感情がすぐ顔に出る。加えて今日はチークが濃いから、頬は異常な程真っ赤だろう。ついてない。
「懐かしいね。再会するなんて思ってもみなかった」
「私も…大学が一緒だなんて知らなかったし。知っていれば、」
入学してすぐに彼の元へ行ったのに。なんて、冗談でも言えない。思えばボヌフォワ君とこんな風にちゃんと会話すること自体初めてだった。気恥ずかしさは余計に倍増する。彼もそう思っているだろうか。彼はあまり人見知りとかはしなさそうだけど、多分、いや確実に、ボヌフォワ君の中で、私は周りにいた女子の一人だっただろう。
それでも私にとって彼は初めての人だ。私は高校を卒業するまでに別の男の元で身体的な意味で女になったが、私の女性性だけは崩れなかったし奪われなかった。全ての起点はボヌフォワ君だ。私を女にしたのはボヌフォワ君だった。改めてそう自覚すると、裸で彼の前にいるような羞恥に襲われる。
「知っていれば、俺も会いに行ったよ」
ボヌフォワ君の声が空気に触れて溶ける。この上ない幸福だった。4コマ目の講義の最中のカフェは空いていて静かだ。窓の外から零れる柔い陽がテーブルに差す。全てが綿密で隙間なく、美しさの最上で、私にはもったいない。私は唇を噛む。彼の優しさの恩恵を受けているだけだ。
「…知っていれば、俺もちゃんと言っていたよ」
彼を見上げると、ボヌフォワ君は困ったように笑う。まるで何かに後悔しているかのように。
「女の子だねぇ、なんて、曖昧な言葉じゃなくて」
デジャヴはすぐさま寂寥を連れてきて、私は真意を確かめるようにボヌフォワ君の瞳を見つめ続ける。
「
は…
は、ちゃんと俺にくれていたっていうのにね」
「私が何を…?」
「顔真っ赤だよ」
頬を押さえて、考えても、考えても、分からない。彼は明確な回答なんて与えてはくれないのだ。それこそ曖昧ですぐに空気の中に消えてしまうような回答しか。
2015.12.14
title:金星