重要なことは後回し
ソファーに寝そべって仕事で使う資料を読むふりをしてメールを打った。食事のお誘いへの返事だ。なるべくボタンの音がしないよう、指を素早くひっそりと滑らせる。他愛もないようなことも本文にちりばめ、送信してからギルベルトをちらりと盗み見る。ギラギラした赤い目が目の前のノートパソコンを睨み付けているのがちょっと怖かったけど、今の私にはそんなのはどうでもよかった。正確にはそれ以上にもっと気になることがあった。
視線をまた資料に戻して、自国の経済状況を改めて憂いていると携帯がチカチカと光る。さっきと同じように資料の陰に隠して受信フォルダを確認した。


『明日14:00に駅で』


了解。


「おい」
「何」
「メール打ってないで仕事に集中しろよ」
「仕事のメールよ」
「じゃあなんで今もさっきも携帯隠した」
「気のせいよ」


携帯画面から目を離さずに言ったのが精神的に利いたのか、それ以後暫く彼が話し掛けてくることはなかった。

メールもいいところで終え、今度は真面目に資料に目を通そうとするもギルが煩い。キーボードをわざと大きくカタカタさせて不機嫌さを顕にしている。それで私に罪悪感を持たせようとしているのか、反省させようとしているのかは知らないけど、生憎私はそんなに可愛くないし、これは全然怖くない。彼が必死で面白い。分かりやすい所は彼の長所で短所だ。彼なりの無言の威圧感を平気でやり過ごすと、今度はあからさまに私をチラチラ見てくる。さっきまでギラギラしていた赤い目には薄ら涙の膜が張って、世界各国から不憫だのぼっちだのと罵られるかわいそうなギルになった。


「なぁ…」
「何」
「お前、怒ってんのか?」


いつもならここでもうちょっと向き合ってあげるのだけれど、今はしてあげない。私が怒ってることに気付いたくらいで、かわいそうなギルになったくらいで、手を差し伸べてなんかやらない。大体、何に怒ってるか分からないまま謝り続けるだけなくせに、誠意が感じられるとでも思っているんだろうか。今までの女はどうか知らないけど、私は甘くないわよ。
ふっと資料から目を離すとソファーの横にギルが立っていて私を見下ろしていた。足音も気配も何もなくて、ただ唐突にひっそりと立ち尽くしている。意外としっかりしている身体が影を作り私を覆って、背が高い分遠くに見える彼の顔が逆光で黒くなった。格好悪い。





名前を呼ばれ、大きかった影が小さくなってすぐにまた部屋の電気が私の目に入った。銀色と一緒に。ギルは私の後頭部に手を差し込んで髪の毛をくしゃくしゃにする。それはとても気持ちがいいもので、彼が私の機嫌をよくする為に使う一つの技だ。


「重い」


そんな技が私にまだ通じると考えている所が本当に抜けている。あからさまにビクついた彼に笑ってしまいそうだった。ギルはこの気まずい空気の中で顔が上げづらいらしく、私にひっついたままどうすることもできないみたいだ。周りの雰囲気を掴んで勝負事には強いのに、それ以外は全然駄目なんだから、この男は。

ギルベルトの性格は熟知しているつもりで、付き合ってみたはいいものの、私だけが彼を慕い彼の為に焦がれている気がしてならなかった。事実、彼は綺麗な女性が居たら、私との会話がおざなりになるくらいそのお姉さんを下心がある目でなめ回すように見ているし、しかもその視線の大半がグラマラスな胸やお尻に向けられているから一緒にいる私がお姉さんに申し訳ない気持ちになる程なのだ。この変態はそのうち捕まるわ、なんて呑気に心配しているうちはよかった。せめて可愛い嫉妬で終わらせられればよかったのに。

自分がどんなにギルベルトに陶酔しているのだと知るのに時間はかからなかった。仕事で部下らしい女の人と喋っているのを見るだけで、胸の中に沸々と熱く焦げ臭いものが煮えたぎる。ボイルしているのに焦げるなんてちょっとおかしい。気持ち悪い独占欲がドロドロと溢れているような感覚が嗅覚も触覚も視覚も麻痺させているんだと思う。最近では、私の友人で彼とは幼なじみであるエリザベータでさえ、その対象になるというのだから末期だ。ヤキモチはすごく面倒くさい。
だから、まるで映画やドラマみたいに、彼がワイシャツの襟に真っ赤な口紅の染みを付けてきたきた時はそれはそれはもう、それこそギルベルトを刺してしまいそうになった。勿論ジョークで、私はナイフを掴むこともなかったけれど、彼に復讐してやろうと計画を練り始める動機には十分だった。


「シャワー浴びてくるね」


いつまでもひっついたままのギルを無理矢理離すと、いとも簡単に剥がれたので拍子抜けした。一向に私の方を見ようとしないのも、今までの行動も、全部が私を苛々させることしかしない。泣いたって許してあげないわ。私がどれだけ精神をすり減らし、水分を消費したか知ろうともしないくせに。
日がもう暮れかけてきている。晩ご飯を作るのはギルに無言で押しつけた。明日はギルではない別の人とデートだから、さっさと寝てしまおう。ギルが私につけた彼の香水のにおいがこびりついて明日の相手に失礼だからシャワーも入念に。


「…バスタオルは棚の横にあるからな」


か細い声でそう言うと、彼は机の上のリモコンに手を伸ばした。

きっと私は、相手も相応に愛してくれないと駄目な女なんだろう。見返りはいらないって言う人もいるけれど強がってるだけだと思う。私だけが損しているだとか、そんなプライドはない。ただ寂しい。私の気持ちがまったく伝わっていないみたいで。
一度大好きになってしまえば自分と相手との温度差に酷く敏感になってしまう。勝手に浮かれて勝手に傷付いて、素敵だと思っていたあの低い声や仕草や話し方まで全部腹立たしくなり、しまいにはギルベルトが大嫌いになった。好きと嫌いは紙一重、だけど元には戻れない。






重要なことは後回し





2012.7.30