「あら、おかえりなさい。小旅行はどうだった?楽しかった?」
「うん。心配かけてごめんね。まさかあんなに電車が来ないとは思わなかったわ」
私の言葉にふわりと笑うルームメイトは、でも、と言って少し真面目な顔になる。
「本当に心配したわ。貴女はまだこの国に来たばかりだし、突然出かけて、日が暮れても戻って来なかったんだもの。それに何だか最近暗い顔をしていたから」
「…ありがとうエリザ。でも大丈夫よ。表情が暗かったのはきっと隈のせいね」
「眠れてないの?」
「まあ、少し…」
「何かあったら私に言ってね。話ならいつでも聞くし、眠れないなら子守唄でも歌ってあげるわよ」
「ありがとう」
彼女の優しさに嬉しくなっていると、彼女の名前を呼ぶ男の人の声が聞こえて、エリザの目が輝く。
「ローデリヒさんが呼んでるから私行くわ。また部屋でね」
彼女を見送ると私も立ち上がりカフェを後にする。そのまま図書室へ向かい、来週の講義で使うであろう資料を探す。深緑のざらざらとした表紙に銀色で印刷された文字をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出していた。
02.今はまだ独りよがり
彼の華奢な背中の後ろを着いていくと、品の良い家に辿りついた。彼は慣れた手付きでその家のドアを開けると、そこで初めて振り返る。
「あまり綺麗じゃないが、気にしないでくれ」
それが家に招いた客人に対するへりくだった表現だということは、彼の家へ一歩足を踏み入れてすぐに分かった。外から見た時に大きくて綺麗だなとは思ったが、私の男の人の部屋という勝手なイメージを文字通り覆すような、はっきり言って可愛い家だった。落ち着いた色合いの壁にアンティークな時計がひっそりと佇んでいて、穏やかに時を刻んでいる。階段の側には背の低い本棚のようなものが取り付けられていて、本だけでなく小物も並べられていた。日本に居た頃頻繁に通っていたお気に入りの喫茶店や雑貨屋のような、いかにもヨーロッパを彷彿とさせる景色が現実にある。思わずバッグを握る手に力が入る。私は静かに興奮しているようだった。
「
?どうした?」
「あっ…ごめんなさい。あの、すごく、良いなって、」
そこまで言って私は口元を押さえる。人の家に来てなんてことを。もっと違う表現があるだろうに。口を噤んだままでいると、アーサーは僅かに口元を緩めて、遂には息を漏らした。
「ありがとうな、嬉しいよ。でも、観察するのは晩飯の後にしないか。腹減ってるだろ?」
私は時計を見た。確かにもう晩御飯の時間で、さらに私は昼を抜いていたから朝ぶりの食事だ。そう気が付くと瞬く間に空腹がやって来る。お腹こそ鳴りはしなかったものの、胃がきゅっと縮んだかのような感覚に襲われた。今の今まで何も感じなかったのに。それほどまで私は追い詰められていたのだろうか。
「遅いマユゲ!スープが冷めるヨ!…うん?」
「湾、客の前だぞ」
「わあ!?ついにやらかしたわねマユゲ!香!香ちょっと来テ!」
「おいうるせえぞ。何だよ」
「香!早く!マユゲが美人妊娠させたヨ!」
「マジで?」
「なっ…違えよばか!」
黒髪でアジア系の顔の女の子がリビングと思しき部屋からひょっこり顔を出したかと思うと、私を見た瞬間驚いて、何かすごい誤解をしたらしかった。そして香と呼ばれたこれまたアジア系の男の子が、奥の部屋から興味津々といった顔で出てきて、二人でアーサーを責め立てる。
「もう!何てことしたのヨ!馬鹿なノ?馬鹿なんでショ!?」
「だから違うって言ってんだろ!」
「酔ってて覚えてないとか言っちゃう感じ?先生に一発殴って貰えばいんじゃね?」
「お前らな…!」
「あの、私妊娠とかしてませんよ。誤解です」
言い争う三人に押されながらもやっとのことで口を挟むと、アジア系の二人が私をじっと見つめてきた。女の子の方が「本当…?大丈夫?」と不安そうに尋ねてきたので、私は頷いてもう一度「誤解です。大丈夫」と言った。そこでやっと二人が大人しくなり、アーサーがわざとらしく溜息を吐く。
落ち着いたところで女の子が「しまっタ!スープ忘れてタ!」と慌ててリビングへ行って、それから私たちを急かす。
「あー…安心したら腹減った的な」
「お前らが勝手に誤解したんだろうが」
「アーサーの普段の行動を考えると、ぶっちゃけ有り得ない話でもない的な?俺と湾を責める前に自分が反省するべきなんじゃないんですか的な。そうじゃねーと先生に言いつけるし、反省しても言いつける感じだから」
「結局王に言うんじゃねぇか。つーかお前言わせておけば俺の行いがどうのこうの、」
「そこ煩いヨ!女の子の前で喧嘩しなイ!」
キッチンから湯気の立つ美味しそうなスープを持ってきた女の子は、テーブルにそれを音を立てながら置いた。アーサーが眉間に皺を寄せたが彼女はそれを無視して、未だに席に着けないでいる私に座るように促す。
「お姉さん、お名前ハ?」
「あ…
です。
。えっと、英文学を専攻してる大学生です。よろしくお願いします」
「じゃあ、マユゲと同じネ!私は湾。マユゲとは遠い親戚で、今は中国から留学に来てるのヨ。こっちのチャラいのは香。私の従兄で、去年からこっちに来てル」
「
は…日本人的な?」
「あ、うん。そう。日本人。三か月前に、ここへ留学してきたの」
今時中学校の英語の教科書でも見ないようなちょっと不自然な英語で答えると、湾ちゃん、と、香君、は、妙に納得したみたいにうんうんと頷く。
「どうりでね、大人しいと思ったヨ。それに礼儀正しいしネ。名前聞いて、やっぱりって思っタ。日本の女の子の名前って本当に可愛いネ!」
「そう、かな?ありがとう…」
やっぱりとはどういうことだろう。私が首を傾げていると、香君が「キク・ホンダって名前の知り合いの日本人が居て、
の雰囲気がマジその人にそっくり的な感じ」なのだと教えてくれた。私たちが自己紹介やら何やらで食事に手を付けないでいる間、アーサーは一人黙々と食べていたが、私たちが互いの家族構成などについて把握した頃、空になった皿を引き上げて「それくらいにしておけよ」と湾ちゃんと香君に注意した。
「マユゲ、どこ行くノ?食器洗ってから部屋に消えてヨ!」
「ベッドメイキングだよ、
の為のな。湾、お前の部屋の使ってない方のベッドを彼女が使う。いいな?」
「エッ、それは勿論いいけど…待っテ!先に部屋片すヨ!」
慌ててアーサーの背中を追う湾ちゃんがリビングから居なくなると、二人きりで少し気まずくなった私に香君が「で、ぶっちゃけアーサーとはどんな関係的な?」などと訊いてきて噎せた。しかしどう説明するのが正しいか分からず、結局まともに答えられなかった。
2014.10.20