重い瞼を持ち上げると、心配そうに私の顔を見つめる人がいた。私が彼の名前を呼ぶと、少しだけほっとしたかのような息を吐いて、それから口を噤んでしまった。私は彼から視線を外すと、ゆるりと天井を見渡す。黄ばんだ板に銀色のレールが付いていて、同じく黄ばんだカーテンがその下に延びていた。そしてそれは私達の周りをぐるりと取り囲んでいる。布団から出た私の手を握るブル君。漸く記憶が浮上した。
「体育の後、急に倒れたんだわ」
彼が絞り出すように言う。今日は確かに二日目で、下腹部の鈍痛と不快感の指数は今月の最高記録をたたき出していた。全くもって嬉しくもないこの記録に苛々しながらも学校を休むわけにはいかないと、痛み止めを飲んで登校し、憂鬱な体育もきちんと参加した。マラソンなどと違い球技だったので特に激しく動くこともないだろうと油断したのが、多分駄目だったんだと思う。最後の方はほとんど記憶がない。辛うじてあるのは、ボールの片付けをしていた時にエリザに大丈夫かと聞かれたことくらいで、彼女にきちんと返事ができたかどうかも怪しいほどだった。ブル君によると、男子は外でサッカーをしていて、その帰りに体育館の入り口に女子達が集まっているのを見て、近付いてみたら私が倒れていたらしい。
「…もしかして、運んでくれた?」
「当たり前だわ…心臓止まるかと思って気付いたら抱き上げてた」
ふと彼を見るとまだジャージ姿だった。ずっとここに居てくれたのかしら。枕元に置いてある携帯に手を伸ばすと、彼が今の時間を教えてくれる。信じられない。もう放課後だ。倒れてから二時間は経っている。さっと血の気が引いた。
「ブル君、授業は…」
「ん?ああ、サボった」
「…ごめん」
私は真面目な彼が正当な理由無しに授業に出ないところを見たことがなかった。その上テストも近い。彼の貴重な時間を駄目にしてしまった。それに、着替えだってしたかっただろうに。
「俺が好きでサボったんだわ、気にすんな」
そう言って笑うブル君に、目頭が熱くなる。と同時に子宮もきゅんと切なく鳴いた。こんな時だけ、私の心の奥底で蠢く感情さえも鏡にして写す私の生殖器は、本当に雌だと思い知らされる。生理中なのに、ブル君への罪悪感を押しのけてやってくる厭らしい欲が唾液の分泌を促した。私の頭を優しく撫でるブル君に気付かれないよう、私は静かに唾を飲み込む。ああ。好きだ。
「…トイレ行ってくるね」
「おう。ほら、掴まるんだわ」
「いいよ、大丈夫。一人で行ける」
「
」
自分が寝ていたところを恐る恐る見て、血だらけになっていないか確認する。保健室のベッドはシーツも布団も真っ白だから、失敗していたら大惨事である。幸い私は大丈夫だった。ただ、やはり不快なので一回トイレで替えて来ようと起き上がる。また、血が下にどろりと落ちて行った。
「
、一緒に行こう。廊下で待ってるから」
「大丈夫よ。それよりブル君着替えてきたら?もう帰るんでしょ」
「
」
ベッドに座ったままの私の手をブル君が躊躇いがちに握る。反対側の手は、一度私の背中に回りかけてから何かを思い出したかのようにさっと一瞬にして引っ込んだ。私はそれが拒絶に見えてしまって、平静を装ってはいたが内心ショックを受けていた。すると彼が慌てて言葉にならない弁解をしながら膝立をして私と目線を合わせる。
「いや、俺、その…体育終わって
連れて保健室来てそのままだから……何もしてないから汗臭ぇんだわ」
「私だって何もしてないから臭い」
「
は臭くねーわ!さっき運んでた時にちょっと嗅いだけどすげえいい匂いだったわ…」
「ブル君が変態なのは分かった。それより私は、」
そこから先は続けられなかった。ブル君の真意は分かった。別に汗のにおいなんか気にしないし、寧ろ私はブル君のにおいなら何でも好きだ。汗の雫そのものさえも、彼の身体から滲み出たものなら飲み込むことも厭わない。滑らかに飲み込んだら私の血肉の一部となって生き続け、綺麗に嚥下できなくても私の喉に貼りついて彼への愛情を伝って外へ溢れる。素晴らしいことだと思う。
黙って強請るように彼へ両手を伸ばすと、ブル君はもう一度念を押してから私を抱き締める。何だ、汗のにおいなんてこれっぽっちもしないではないか。するのはブル君の肌とジャージの柔軟剤のにおいだけだ。すん、と鼻でにおいを嗅ぐとそれは無遠慮に私の中へ侵入してくる。思わず彼のジャージを握りしめた。
「…あんまり無理すんなよ。辛いなら体育休むなり俺を頼るなりするんだわ」
「……うん」
「そうじゃないと俺がもたないんだわ。な?」
「うん」
彼は最後に抱き締める力を強くする。その後私を解放したブル君は、私の手を引いて一緒に歩いて行った。廊下の窓から見えた空は、地球が傾いたことをよく示した色をしている。
ジャージで二人手を繋いで歩いているのをエリザ達に見つかって、沢山心配された後に同じくらい冷やかされた。
ブル君は顔を真っ赤にしながらあーだこーだ言いながらも、私の手を離さない。
2015.10.19