例え私が彼の大事な何かを奪ったとしても、彼は私に微笑みかけて平穏を知らない荒れた手で私の頭を撫でるだろう。自分で言うのも恥ずかしいが私は恐ろしく女の中の女という面を持っていて、それは私の意志とは無関係に周りの人に襲い掛かる。自己嫌悪の感情などとうの昔に置いてきた。ある日突然どうでもよくなってしまったのだ。それは私の脳みその回路が何かの刺激で、まるで電気のスイッチを入れる時のようにかちりという固い音を伴って変わってしまった事実だった。若くて出しゃばりな有象無象の女の如く、私はふしだらに朝帰りを繰り返した。
「駅前のお洒落なパブ、女の子に人気、ワインの種類が豊富、ご飯も美味しい」
箇条書きされたリストを頭の中に貼り付けて、現金とカードを財布に仕舞い込み外へ出る。広いベッドの上のシーツは整えていないけど、暫く彼と寝ていないので別に良かった。整えることで、彼独特のにおいが薄れてしまうのが嫌だった。私はどこまでいってもどうしようもなく女だった。
ヒールの高くない靴をコツコツ鳴らしながらコンクリートの上を歩く。陽が暮れて珍しく雲のない空には星が広がった。噂のパブも、そろそろ開くだろう。大通りに出ると人ごみを避けて通った。店はこじんまりとした、穴場的な所にあるらしい。フランシスから教わったその場所へ、私は視線を彷徨わせて向かう。
少し歩いて、また戻ってを数回繰り返して漸く見つけた店の前にopenの札がかかっていることを確認して透明なドアを開く。
カウンターに座っていた男達に上品な笑みで近付くと彼らは上機嫌に私を呼びよせる。彼らは数人のグループで、私は輪のように並んだ彼らの真ん中の席へ通された。
「君、ここに来るのは初めて?」
「ええ、そうよ。友人から紹介されたの」
「じゃあ、その友達に感謝しないとな」
早速ワインを注文した私が待っていると店のドアが開く。
「あら、アーサーじゃない!」
店の奥に座っていた女が立ち上がってアーサーに手を降る。アーサーはそれに小さく応えると私の側を通って女の元へ向かった。私は男達の影に身を隠した。そのおかげで彼には気付かれていない。今気付かれては困るのだ。それなのに、にこやかに他の女に微笑むアーサーに腸が煮えくり返るような錯覚を覚える。まだワインを一口も飲んでいないにも関わらず、喉の奥も胃の中も焼けるように熱かった。思わず唾を飲み込むが、それすらも私の消化器官を痛めつける。隣の男にどうかしたのかと声をかけられて、誤魔化すように目の前に置かれたワインを飲んだ。ズキズキとした痛みは無視して、今日は沢山お金があるのをいいことに、私はペースも考えずにどんどんお酒を頼んだ。
一時間程経った頃だろうか、既に出来上がっていた私は調子に乗って私の身体を触ってくる男達を好きにさせていた。彼らは際どい所までは手を伸ばしてこないものの、腰や肩を抱いて隙あらばそれ以上のことをしてきてもおかしくない雰囲気を持っていた。彼らの会話に適当に相槌を打ちながら、アーサーのいる方をちらりと盗み見ると、最初に彼に声をかけた女と相変わらず楽しそうにやっていた。
「ちょっとお手洗いに行ってくる」
「大丈夫?」
「平気よ」
苛々を押し殺して彼らの元を離れると、こそこそとトイレへ逃げ込んだ。パブにしてはかなり綺麗で、鏡の前で真っ赤になった自分の顔を見て盛大に溜息を吐く。
女の前でへらへらするアーサーを、その女の前で叩きのめしてやりたかった。誰かに言って信じてもらえるか疑問だが、私と彼は付き合っている。少なくとも一世紀は。私達みたいな存在にとっては、百年なんて黙っていても過ぎ去る昼間のようなものだ。あっけない花の一生のようだ。だけど私は女で彼は男だった。ただ人の形を成しているだけで良かったのに、アダムとイヴと同じ何も知らない何もいらない楽園で過ごすことができれば良かったのに、私は女らしい女だった。吐き気を抑えて鏡を睨み付ける。気合いを入れようと顔に水をかけようとした時、後ろから恐ろしい人が近付いてきた。咄嗟に振り返って出口へ走ろうとするも、いとも簡単に壁に押し付けられる。
「」
緑色の目をしたアーサーが僅かに微笑みながら私の手首を掴んでいた。内心死ぬ程怖かったけど、ここでへなへなと崩れたら負けだと思って、さっき鏡越しの自分にしたのと同じように彼を睨んだ。
「男子トイレはここを出て正面よ」
「何か久しぶりだな。そういえば最近ろくに会話もしてなかったな…俺が家にいる時にお前は居なくて、俺が出かけている時にお前が家に居るんじゃ、仕方ないが」
「触らないで変態。叫ぶわよ」
「」
ぐっと影が濃くなって、彼と私の距離が限りなくゼロになる。私は掴まれた手に力を込めて、彼の手の甲に爪を立てる。ぎりぎりと嫌な感触が爪から伝播し遠いくるぶしまで響いた。震えを殺して彼に反抗していると、気が緩んだアーサーが私の唇を舐めた。
「汚い」
「それにしても、よく俺の行きつけが分かったな」
「ふざけないで本当に。警察沙汰にしてやる」
「ヤードは優秀だ…だが俺の逮捕のために彼らの仕事を増やすのは本望じゃない。なあ、」
「離れて、」
性急に塞がれた唇に気を取られている間にスカートの中に手を入れられる。腿を擦るだけのその行為は、けれど泣きたくなるくらい気持ちいい。アーサーの手だと思うと尚更だ。
彼は相も変わらずキスが上手い。それを、他の女、例えばさっき彼の隣に居た女にも披露したのだろうか。潤んだ瞳で懇願する彼女に、望み通りくれてやったというのか。彼の唾液を嫌でも嚥下しなければならないこの状況においても、私の中では生臭い嫉妬が渦巻いていた。そうか、これは嫉妬だ。私には目もくれないアーサーが、他の女には優しく接することへの憎しみだ。何度寝ても、キスや愛の言葉を吐かれても、一向に落ち着けない私の女性性だ。いつの間にか涙を零していた私を、アーサーが宝石を選定する目つきで縛り上げる。
「さっきのブスな女とは、何も無いからな。ガバガバな女は嫌いなんだ」
「……」
「気付いてくれて嬉しいよ」
そう言ってアーサーは至極幸せそうに私を抱き締めた。私の心は締め付けるものが一瞬にして消えたからか酷く軽やかで、このまま遠くへ飛んでいけそうな気さえした。それでも、涙は止まらなかったけれど。
「ずっとこの日を待ってたんだ」
例え私が彼の大事な何かを奪ったとしても、彼は私に微笑みかけて平穏を知らない荒れた手で私の頭を撫でるだろう。大事な弟の旅立ちを、血反吐を吐きながら見送った人なのだ。誰かを大切にする気持ちが強い人なのだ。神が追放したイヴの罪を一緒に背負うような人なのだ。だから、少しくらい。
紐解けばあなたにだって分かるだろう
2015.4.29
title:シンガロン
material:HELIUM
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