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白紙に戻せ
上司に課せられた、普通の人間ならぶっ倒れるんじゃないかと思えるような量の仕事を、俺は期日までに片付けなければならなかった。先にとの約束があったのだが、事情を話せば彼女は理解してくれて、二人で俺の家に来てからは本当に良くやってくれていた。流し台に溜まった食器を洗い、投げ捨てられた洗濯物を片付け、それから掃除機もかけてくれたようだった。俺はずっと書斎で仕事をこなしていたので、環境を変えるのも兼ねてリビングへ戻るまで掃除機の音以外のことは分からなかったが。 書類を抱えてリビングへ戻るとがソファーでうとうとしていた。それを横目にテーブルでペンを走らせる。クソ、それにしても苛々するな。上司は俺のことをロボットか何かだと勘違いしてるんじゃないのか。こんな量を一人に任せるなんてよっぽど無知なのか、低能なのか。俺がそう簡単に死なないからと、立場が違うのを利用して、面倒事を押し付けやがって。いつもいつもいつも。 ペンが滲んだ。俺は舌打ちしてその紙をくしゃくしゃにしてその辺に投げる。いつの間にか起きていたが、俺が投げた紙の塊を拾って広げる。その姿が視界の隅に入ってそれすらもイラつかせた。字が雑になっていく。どんどん斜めになっていく。 「ねえ、ちょっと私のこと罵って」 「顔も見たくない。失せろ」 彼女は笑った。紳士の皮を被った下衆だと言って、それから暫くは大人しくしていた。 忙しさを言い訳にするのなら、酷い男だと思う。らしくないことをしてしまった。恋人の他愛無い、構ってくれの合図を、俺は無碍にした。やっと仕事が片付いた時には、俺はあの日以来に会っていないことに気付いたのだ。俺は慌てて彼女に電話をかけた。 時間にしてたった数秒。それでも俺を絶望させるには十分すぎた。 電話が繋がらない。 俺は頭を抱える。どうしてこんなことになった。 よくよく考えてみれば、彼女が罵声を求めるなんてことは今までになかった。いや普通大体の人間がそんな経験ないと思う。彼女はどこかおかしかったのか。何か心に煩うことが、あったのだろうか。分からない。分からないんだ。 自分の情けなさを恨んだ。仕事の苛々を彼女にぶつけ、傷付け、何にも気付いてやれなかった。最低の屑野郎だ。 俺は家を飛び出し彼女の行きそうなところを一つ一つ回った。決して要領の良いとは言えないやり方で彼女の背中を見つけた時には、既に陽は落ちていた。 閉館間際の図書館に、は居た。余所行きだがラフな格好なので今日は仕事が休みだったのかもしれない。俺は自分に息を整える間も与える余裕が無かったので、紳士にしては酷く不恰好な様子のまま彼女に手を伸ばした。 肩に触れる直前、魂が抜けたようにが膝から崩れ落ちたので心臓が止まりかける。 「!?」 「……アーサー?」 俺が支えてやると、彼女はこちらを見た。 死ぬかと思った。 は泣いていた。 「お前…どうしたんだ!何かあったのか!?」 「ちが…違うのよ。何でもないの」 聞いてから、俺ははっとする。馬鹿か俺は。を追い詰めたのは、こんな風にしたのは俺だろう。彼女に触れる手に力が籠る。やるせない気持ちで一杯になった。 古びた白熱灯の下で精一杯彼女を抱き締める。 「ごめん…ごめんな。冗談だったんだ…ごめん……好きだよ」 「なに、アーサー…どうしたの?」 「お前を蔑ろにした。俺が悪かった……俺の側にいてくれ、ずっと」 「…ああ、あの時の」 は顔色一つ変えずに涙を拭う。 「そんなんじゃ…別に私気にしてないし……そのことで泣いてたんじゃないわ…」 「じゃあ何でここ最近俺を避けるような真似をしていた?」 腕の中の彼女がたじろぐ。覚えがあるようだった。俺は彼女がどんなことをぶつけてきても受け止めるつもりだった。 「仕事が忙しくて、それどころじゃなかったの…ごめんなさい」 は申し訳なさそうに俺の目を見た。何色でも飲み込む真っ黒の瞳が軟弱な俺を映している。すっかり華奢になった身体を起こして、それからはごめんねと言った。暫くまともな食事を取っていないらしいので、俺は美味いレストランに連れていこうとして、自分が車で来ていないことを思い出した。 ***** 「ねえ罵って」 「……愛してるよ」 「だから私、気にしてないって…」 「愛してる」 仕事が落ち着いてから、彼女はみるみる元気になった。お互いに上司の低能さについて語るのは、趣味は悪いがとても楽しい。彼女の上司も、彼女のことをロボットか何かだと思っているらしく話は弾んだ。 気まぐれだったのだと、は言った。俺ならどんな風に人を罵るのかと些細で傲慢な好奇心にそそのかされたらしい。だから俺が間髪入れずに酷い台詞を言ってのけたのを目の当たりにして感動すら覚えたという。 「アーサー、何度も言うけど、あれは私が求めたことよ。ちょっと試してみたかっただけよ。他意はないわ」 が困ったように笑う。 違う。違う違う違う違う違う。お前に似合うのはそんなんじゃねえんだよ。 「愛してるよ、」 俺は心からそう思っているし、それを彼女に伝えてやらない理由なんてない。大事にして、労わって、ひたむきな愛情を、数えきれない愛しさを、代えがたい温もりを、ただ歪ませることなく彼女に向けることに、なんの痛みもない。苦労もない。 もしかして、こんな風に言葉を選ぶことを知っていたら、俺はもっともっと上手に生きられたんじゃないか。余計な恨みを買わなくて済んだのではないか。兄さん達も含めて、皆、俺のことを少しは好きになってくれたんじゃないか。巻き戻せない過去を後悔しても意味がないことは分かっている。口から出た言葉は、たとえ単語を成さないaの一文字でさえも取り消せない。 だからこれからには綺麗な言葉を浴びせよう。不本意に傷付けないように、屈託のない愛情を注がれるのは当然といった様子で息ができるように。言葉の選択は丁度薔薇の剪定に似ている。綻びの目立つ俺の脳から紡ぎ出される言葉が舌を介して振動となり彼女の耳に届く烏滸がましさの代償に、俺自身が錆びても良い。 「…アーサー、」 「愛してる」 には、笑顔が一番似合うんだ。
2016.1.2
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