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外の静けさが身にしみる。それは寂しい気持ちと混ざって真っ黒な塊を作り上げる。鉛のように重く冷たいそれが、傾いた私の心をごろごろ転がり、柔らかい地面を無遠慮に抉っていく。傷口からは何も流れない。 ぐちゃぐちゃになったシーツをそのままにベッドから出てリビングへ向かう。冷えた空気が薄着の私を撫でて思わず身震いした。 冷蔵庫からりんごジュースの大きな瓶を取り出して、食器棚から可愛らしいグラスに注ぐ。流し台の電気の紐を引っ張るとカチリという音と共に黄色い光がついた。瓶を冷蔵庫にしまい、氷がなくても十分冷たいりんごジュースをちびちび飲みながら、リビングの小さな机に放置していた携帯を手にする。自分で持っていると無駄に弄って電池を減らしてしまいそうだったので、昨晩わざと部屋に持っていかなかったのだった。今となっては何だかどうでもよくなってしまってメールの確認だけするけど、新着のものはなかった。 そういえば、と思って時間を確認するとまだ夜中の3時で、自分に呆れる。遠足前日の小学生でもこんなことしないんじゃないか。まさか、明日、というか今日が楽しみで、興奮して寝られないなんて。 意識していなかったけど私は無駄に緊張しているみたいだった。玄関には着替えの入ったキャリーバックや大量のお土産が並べられている。これらは、一昨日の晩から用意し始めたものだ。前日バタバタしないようにと早めに荷物を纏めておいた。持ち歩く用の小さめのバッグには、財布とパスポートとハンカチとポケットティッシュ。化粧品は朝使ってから入れるつもりだ。 歩き慣れた道をぐんぐん進んで、見慣れた空港から乗り慣れた飛行機で行き慣れたロンドンへ、あと10時間以上。アーサーまでそれ以上。私の家から彼の元まで、行き方も周りのにおいもすべて鮮明に記憶している。それなのに、アーサーの顔も身体もにおいも温もりさえも、彼の持ち物の何一つもきちんと浮かんでこない。思いすぎているのか夢にも出てこない。最近彼は忙しいらしく、メールも続かないことが増えた。私は自分の携帯からアーサーの色が消えてしまうのが怖くて、「おはよう」とか「おやすみ」の他愛ない一言のメールも保護している。エリザに阿呆だと言われたけど、確かに私は阿呆だ。でも煩い女にだけはなりたくないという一心で気持ちを押し込めた。その代わりに、健気で阿呆なことをして彼に包まれようとした。 自分のしたことをまるで才能だけで成し遂げたかのように振る舞うアーサーが好きだった。裏ではしっかり人以上に努力する彼を知っているのは私だけだという独占欲にこっそり幸福になっていた。でも寂しい。会いたい。あの不器用な手で抱き締めてほしい。 一度そう思ったら耐えられなくて、もう時間的に仕事は終わっているだろうと考えたが最後いてもたってもいられなくなった。煩い女にはなりたくなかったのに、そのために今まで我慢してきたのに。一時の欲望で全てが簡単に崩れ落ちる。 アーサーの番号を何度も確認してからボタンを押した。 「...Hello」 「……ハロー」 「お前、無用心すぎるだろ、鍵くらいかけとけ」 「……」 「…聞いてんのか」 「……変質者がいるわ」 「恋人だろ」 「変質者でもいいっ」 随分と立体的でリアリティー溢れるアーサーにダイブすると、可笑しなことにあたたかくて優しいにおいもして、何となく私の妄想が物体化したのかと思っていたけど、それは紛れもない現実だった。私は床に倒れることなく抱きとめられ、その嬉しい衝撃に涙が溢れかける。代わりに携帯が落ちて無機質な音を出した。アーサーの通話中の携帯からも、似たような音がした。 暫く抱き合っていたけど、アーサーが私の耳に軽くキスをして、それを合図に私は彼の唇を舐めた。珍しい苦味がとても意外で、アーサーの首に手を回しながらも少し距離を取ると、彼は喉を鳴らして苦笑する。 「眠気覚ましに飲んだんだ」 「紅茶じゃ効かないの?」 「強力なやつが必要だったんだよ」 「…どうして?」 「、」 そう言ってすぐさま私の返答を遮る。 アーサーの口内は唇以上に苦味が浸透していた。そういえばこの飲み物には興奮させる成分が入っていたような。そんなことが頭を掠める頃には、私達は完全にその成分によってお互いに翻弄されていた。私がアーサーの頭を掻き抱く度にそこから僅かに煙草の煙も感じた。きっと、不思議なにおいのする白い霧の中、異常に黒い液体を啜りながら、頑張ってくれたんだ。この不器用な手で。 私の綻びを縫うように、アーサーはキスをし続ける。どうか私の現金な身体が、いつまでも彼を憶えておいてほしいと強く願う。 口の中で、名前を呼ばれた気がした。
群青の海
二周年フリリク 浴槽でリプレイ 群青の海 英 / カレン様 20130131 |