01.誰が聡明だと言った 思う通りには決して動かない電車に乗って、やっとロンドン郊外まで逃げてきた。沈みそうな夕陽に溢れだしそうな涙を堪えながら駅を出る。ロンドン中心部よりもますます見慣れない、あたたかい雰囲気の町を一人歩きながら思う。やってしまった。遂に、逃げ出してきてしまった。
お洒落な街灯の下で立ち止まり、ヒールに悲鳴を上げ続けていた足を見遣る。ストッキングに染みた血が変色していて気持ち悪い。少し足をずらせばじんわりと痛みが広がる。バックには携帯と財布とハンカチしか入っていない。本当に、何をやっているんだろう。
辺りは早くも暗くなってきていて、私以外は誰も居ない。頭上の街灯がその光を緩やかに強めていく。




01.誰が聡明だと言った




今から駅へ行っても、きっと間に合わない。時間通りになんて来ないのだから。
途方に暮れた顔で街灯の下を離れた。自分でしたことなのに、弱すぎるわ。


「…か?」


再び足を気にしていると、向こうから人が歩いて来た。背が高くて身なりがきちんとした男性だったが、名前を呼ばれて私は驚く。こんな知り合いはいない。


じゃないのか?」
「え!あっ…うん、そう。です。間違いないわ」
「やっぱりな。こんな時間にこんなところで何してるんだ?」
「何って…」


私が彼の顔を凝視していると、彼が困ったような表情を見せた。


「アーサー・カークランドだ。お前と同じ英文学を専攻してる」
「…ごめんなさい。まだあんまり人の顔と名前、覚えてないの」
「気にするな。お前はこの間来たばかりの留学生だし、うちの大学じゃアジア人は特に目立つ」


彼は優しい笑みを作ってから、腕時計を見た。私は彼の名前を口の中で数度反芻し、同時に彼の顔を頭に刻み付ける。人の名前と顔を覚えるのはただでさえ苦手なのに、かけ離れた人種のせいか、欧米人はますます覚えづらい。とはいえ、一対一できちんと自己紹介してもらったんだもの。私も彼のことはちゃんと覚えなきゃいけないわ。


「ありがとう。私はよ。ファミリーネームは。もう知ってると思うけどね」
「ああ、、よろしくな。さて本題に戻すが、お前こんなところで何やってるんだ?」


彼が仕切り直すように問う。私はほんの一瞬迷うものの、すぐに口を開いた。


「小旅行のつもりだったんだけど、凄いわね。電車がなかなか来ないんだもの」
「日本の公共交通機関と比べないでくれ。うちの国の鉄道はヨーロッパの中でも断トツに酷い」
「でも形とか色は好きよ。可愛い」
「それにしてもこんなところに小旅行なんて変わってるな。は今大学の寮だろ?電車で20分くらいじゃないか」
「寮から電車で20分でも、私にとっては十分旅行よ。だってここはイギリスだもの」


上手く笑えたようで、彼も嬉しそうにする。
本当にイギリスは綺麗だ。私はイギリスが好きだ。英国が好きだ。勉強とバイトにほとんどの時間を費やして、やっと来られた国だ。試験の合格証明書と自分の通帳、そして留学届を親に見せた日が懐かしい。
何一つ後悔なんかしていない。


、」
「うん?」
「大丈夫か?」
「え、何が?」
「いや…大丈夫ならいいんだ」


彼は顔を背けて一人もごもごとしている。長い金の睫毛が街灯に照らされて透ける。


「ところでお前、今日はどこに泊まるんだ?」
「泊まらないわ。…このまま帰るの」
「え?」


うちの寮は休日の外泊においては割と寛大というか緩いから、まともな外出届を提出しなくても電話一本でどうにかなってしまう。最悪どこか小さなホテルにでも泊まろうかと思っていたけど、この辺りを見渡した限りではそれも難しそうだった。それに今お金が十分にあるわけではないし、優しいルームメートを心配させる強さも持っていない。ほとんど勢いだけで飛び出した小さな小さな家出だった。


「帰るって、どうやって」
「来るか分からない電車を待つか…まあ、線路沿いにゆっくり歩いて帰ってもいいと思ってたの。だから、」
「駄目だ」
「…え?」
「危ないだろ。暗い中女一人で、何かあったらどうするんだ」


ああ、そういうことか。こういった類いの心配をされるのは久しぶりで一瞬戸惑った。
だけど、彼は私にどうしろと言うのだろう。野宿なんてしたくないし、かといって彼が送ってくれるなんてもっとない。万が一そう話を切り出された時の為に、私は日本人らしい丁重な断りの言葉を用意する。


「心配してくれてありがとう」
「…なあ、もしお前が良かったら、」
「大丈夫よ。私、一人で帰れる」
「もし良かったら、今日は俺の家へ来ないか?」


私の言葉を遮るように彼が発したのは、すぐには理解できない内容だった。




2014.6.14