ダーリンハニー
ブル君の家で一晩過ごして、朝食を摂りながら、そういえば、と言って彼は私に家のことを説明し出した。昨日は平日であるにも関わらず、私のために仕事を休んでくれたらしい。それだけでも有り難いのに、今日は仕事で一緒に居られないので、私が暇しないように彼の娯楽を自由に使っていいと言ってくれた。

「映画は一応ジャンル別に分けてるんだわ。あとCDの場所は知ってるだろ?偏ってるけどまあ種類は結構あると思うんだわ。本も好きなの読んでいいから」
「うん」
「冷凍庫にはお前の好きなアイスもあるし、籠の中に菓子もあるからな」
「うん」
「あー…あとは、」
「ブル君、時間」

まず寝室から始まり、リビング、台所と細かく説明するブル君は、身支度を整えながらテキパキ動く。でも朝食がまだ途中だし、私もそこまで何も出来ないわけじゃない。

「遅刻するよ」
「平気なんだわ。それより、本当に大丈夫か?」

彼が私の肩を掴んで心配そうな顔をした。私は短く溜め息を吐く。

「あの人は、私のことを何も知らないわ」

親に宛がわれたあの人は、言葉通り本当に私のことを知らない。きっと金か体裁のために私の元へやってきただけで、それこそ私自身など性欲処理と破壊衝動の発散以上の存在として見ていなかっただろう。私の気持ちや人格、ましてプライベートに興味を持つはずがない。だから逃げた先や私と関わりのある人のことなど何一つ知る由もない。
それでも、もし、彼らがここへ乗り込んできたら。そんな不安は消えてくれなかった。一番怖いのはブル君が巻き込まれることで、彼に何かあったらその時は容赦しない。私は私の平凡とごく当たり前の幸せのために、決して大げさなどではなく、闘わなければいけないのだ。

「でも、」
「大丈夫よ、大丈夫。ブル君の気持ちはとても嬉しいけど、私も頑張らなきゃ。強くなりたいの」

流れるように微笑む。すると彼が情けない表情で私をそっと抱き締めた。シャツの擦れる音が心地よい。彼の広い背中が小さく震えたのを感じて、思わず出かけた濡れた息を押し殺す。私はこの人のためにも、強くならなければ。

「分かった。でも無理はするなよ」
「ありがとう」
「返事は?」
「え?」
「無理はするなよ、の返事。…何があっても、何においても、無理をしないこと。これを守ってほしいんだわ」
「…はい」
「約束な」
「ほら、時間よ」

彼に薄手のコートを着せて玄関まで見送る。黒い革靴のかかとを変に踏まないように手を差し込む彼の曲がった背中が愛しい。背中でものを語ると言うが、自分のことを好いてくれる人の背中はただそこにあるだけで安心するのだ。

「いってらっしゃい」
「新婚みたいなんだわ」
「ダーリン?」
「ハニー」
「…ふふ」
「笑うなよ」

ダーリンもハニーも似合わなさすぎて思わず笑うとブル君が困ったように私の頭を撫でる。そしてふと思い付いたように私の肩に手を添えると、そのままゆっくり顔を近付けてきた。私は黙って目を瞑り、その続きを密かに待つ。時が止まったような長いキスだった。ただ触れているだけだったけど、そのプラトニックさが穏やかで心地よい。キスを終えて気まずそうに視線を下げたブル君が可愛くて仕方がなくて目が離せなかった。

「行ってきますのキス?」
「言うな…」
「ブル君可愛いね」
「遅刻するからもう行くんだわ」
「うん、いってらっしゃい。気を付けて」

恥ずかしそうにしながらもしっかりハグは忘れない彼は本当は甘えたがりだ。不器用だからそれを表に出すことはほとんど無いけど、こうやって突然デレてくるので私としては嬉しい限りである。一杯甘やかしてやりたい。
悪戯のつもりで耳朶を唇でつつくと彼はびっくりして勢いよく私から離れたのでまた笑った。ブル君は頬を赤く染めながらドアを開けて、手を振る私に向かって叫ぶように宣言した。

「近いうちに本当にを俺の嫁にしてやるんだわ!覚悟しろ!」

ドアが閉まり光が遮られた頃、私は熱くなった頬に手を添えて、玄関でへなへなと崩れた。彼が帰ってきたらどんな顔をして会えばいいんだろう。
2015.3.29