ex.あしおと


面倒なので先にいくらかチャージしてから改札を抜けた。日本よりも早く流れるエスカレーターに乗って下へ下へと降りていく。下方から空気が流れて来て、それを当たり前のように身体に取り込んだ。風によって乱れた髪を整える。
下まで行くと人にぶつからないように自分が乗る路線のホームまで早足で歩く。そうしないと大概他の人達にぶつかってしまうのだ。彼らは律儀に謝ってくれる。そしてこちらが申し訳ないと感じる前にいなくなってしまう。

アーサーと付き合うようになって一か月経った。二人で映った写真を携帯で見ていたら、エリザがきらきらした目で私に抱き着いてきた。そしてそのままどこまで進んだのか聞いてきて携帯を落としそうになった。上手くはぐらかして例の日のコーディネートのことを感謝すると、エリザは唇を尖らせながらも嬉しそうにしていた。
その後、湾ちゃんに新しく買ったストッキングを返しに行くと、やはりというかなんというか、おめでとうと祝福された。多分アーサーから言ったのだと思う。というよりも湾ちゃんや香君に逃げ場を無くされて結果意図せず漏れた可能性の方が高いかもしれない。気になって湾ちゃんに尋ねると、案の定二人で問い詰めたらしい。動揺するアーサーを想像して口元が緩んだ。それから湾ちゃんにまた家に遊びに来るよう誘われ、その数日後には早速二回目のお泊り会になった。夜になって湾ちゃんと香君が、私とアーサーの寝室を分けるべきか否かを真剣に話し合っているのを見た時は心の底から笑った。アーサーは終始顔を赤くしたり声を荒げたりしていて、それを軽くあしらう二人の言動もまたユニークだった。


「大体お前らにそんなこと決める権利があんのか?無いよな?無いだろ?」
「今回誘ったのは私なのヨ。のことは私がしっかり守るヨ!」
「アーサーは油断ならない的な」
「どういう意味だよ香。あー…、お前は前回と同じ、湾の部屋でいいな?」
「うん、私どこでもいいわ」
!そんな曖昧に返事したらアーサーに寝室連れ込まれるヨ!」
「え、うん…まあ、いずれは…」
「なっ、お前、」
「え?」


彼は何か言いたそうに口をパクパクさせていたけど、香君に気持ち悪いと一蹴されて我に返り、そそくさとシャワー室へ行ってしまった。後ろから見た彼の耳が赤くて愛おしさが募ったのは内緒だ。


目の前を通り過ぎて行ったテューブに時計を確認すると、待ち合わせの時刻までまだいくらかある。電光掲示板の表示は1Minで、平日であるし特に問題なさそうだ。通り道から離れて人の邪魔にならないように電車が来るのを待つ。


「…!」


突然腕を掴まれてびっくりしながら振り返ると、息を切らせたアーサーがいて更に心臓が跳ねる。彼はいつものように羞恥を思い出したのか掴んでいた私の腕から手を離して、ぎこちなく笑みを作る。何とも気まずそうな顔だ。


「アーサー…」
「驚いたか?」
「とても。でもどうしたの?待ち合わせってここじゃないよね」
「ああ…いや、偶然早く起きたんだが、そしたら湾達にを待たせるなと蹴り飛ばされてな」
「えっ、大丈夫?」
「実際に蹴られたわけじゃない、比喩だ」


彼が笑って、私が彼に怪我がないことにほっと胸を撫で下ろした時に、丁度電車がホームへ滑り込んできた。可愛い形と色彩の車体はいつ見ても飽きない。足元に注意するよう言うアーサーの声とアナウンスを聞きながら乗車し、空いている席に腰掛けた。レトロな色の手すりに目を遣りながら、隣から遠慮がちに出された彼の手を握り返す。まるで親と子が繋ぐようなものではあるけど、穏やかで温かくてとても落ち着くので私は好きだ。風を切っていくようにスピードを上げる電車に揺られて時折彼の肩にぶつかる。周りには抱き合うカップルや新聞を読むサラリーマン、談笑するおじいちゃんおばあちゃんがいて私達には目もくれないのに、私は何となく恥ずかしくなって目を伏せる。隣を見上げるどころか、向かいの窓ガラスに映っているであろう彼の顔も見られなかった。


…?」


突然かけられた彼の声に顔を上げると、いつの間にか失速していた電車が目的の駅に到着していて、車内はバタバタと騒がしくなる。慌てて電車を降りたせいか、溝に引っかかって彼の背中にぶつかってしまった。


「駅の土産屋にmind the gapのキーホルダーが売っているぞ」
「それこの国に着いてすぐに買ったわ。可愛かったから」


留学当初、浮かれていた私はほとんど観光客気分でロンドンの名所という名所を一人で回った。右も左も分からない中テューブに乗って一人で色々な場所へ行くのは不安な反面面白かった。今日はそれを、アーサーと共にする約束だったのだ。もう一度行きたいところやまだ行っていないところが多すぎる。ロンドンは素敵だ。テューブでさえ楽しい。
私の無事を確認したアーサーは再び私の手を握って改札へ向かった。先程のような躊躇いがなくなっていて一瞬どきりとする。


「雨が降りそうね」
「分かるのか?」
「だってするじゃない、雨のにおい」


観光客と思しき団体の後に流れるように着いて行く。ピーク時に比べれば少ないのだろうけど、やはり人の波は出来ていた。少し早く行った方がよく見える場所を確保できるので、アーサーに頼んで待ち合わせの時間をいつもより早くしてもらった。といっても、彼は湾ちゃん達に蹴り飛ばされて、待ち合わせの場所を通り越して私の元へと来てしまったわけだけど。
クリーム色の建物が見え始めると、その場所も近い。私は通りに並んだ土産店の雑貨をショーウィンドー越しに眺めながら彼の手に引かれた。
信号が赤であるにも関わらず渡ろうとするアーサーを制して、ここは二人で待った。


「もう人が沢山いるわね」
「お前の言う通りだ。ちょっと降ってきたな」


人ごみを避けつつ良いポジションを取ると、アーサーがジャケットを脱いで私を引き寄せる。そのまま二人一緒に被って雨を凌いだ。イギリスは雨が多いといっても東京の年降水量の半分くらいだし、日本のようにびしょびしょになる程強くも降らないので、この程度でも十分なのだ。それよりもアーサーの腕が私の反対の肩に回っていることや、彼の香水が香ってくることが問題だった。あの日初めて抱き締められてから、別にご無沙汰というわけではない。シャイな彼ではあったけど、人のいないところでは触れ合うことを求めてきた。そんな時私は緊張で固まる。


「…、俺の背中に手回してくれないか」
「え、」
「もっと内側に入らないと俺の腕が濡れる」


言われて、確かに彼は先程から私を庇うようにしていたので素直に従う。が、恥ずかしいので恐る恐る手を動かした。すると彼はまた私の身体を寄せる。気がおかしくなりそうだった。ブラウス越しに心臓の音が漏れてないことを祈る。
私達の後方にはいつの間にか人だかりが出来ていて、アーサーが時計を見てそろそろだと言った。荷物を取られないように前に持ってきて押さえる。


「寒くないか」
「全然寒くない。あたたかいわ」
「…そうか」


観光客達のカメラが一斉に音を出し始める。私は彼に少し身体を預けて、黒く高いフェンスの向こうを見つめた。




ex.あしおと




2015.2.23