05.あしあと あの後湾ちゃんが帰って来る前までに涙を引っ込めて寝たふりが出来た。彼女がそれに気付いたかどうか分からないけど、静かにドアを開けて「寝たノ…?」と呟いたきり、黙ってそっと自身のベッドに転がってくれたからとても有難かった。湾ちゃんに背を向けていた私は、一日に二回も泣いて腫れぼったくなった瞼をゆるく持ち上げてぼんやりと枕横の例のオルゴールを眺めながら、あることを考えた。



パラパラと捲って中を少し確認した後、その深緑の本と近くにあった茶色い本を借りた。図書室を出て寮へと戻る途中、この数日で親しくなった人の背中が目に入る。


「アーサー」


声を掛けて近寄ると、ちょっと驚いた顔をしたアーサーが挙動不審で面白かった。




05.あしあと




…」
「おはよう。昨日は本当にありがとうね」
「ああ…気にするな」


視線が泳いでいる。彼の顔を下から覗くとさっと背中を向けられる。そして慌てて振り返った。


「いや…これは別に、その」
「え?何?」
「避けてる、とかじゃないからな」
「……ああ!やっと分かった。大丈夫、そんなこと思ってないわ」


どうやら私に咄嗟に背を向けたことが気になっていたらしい。変なことを考える人だなと思う。


「あと、昨日も、突然家に呼んだりして悪かった」
「え、どうして謝るの?本当に助かったのよ。謝らなきゃいけないのは私の方なのに。…本当にありがとう。そしてごめんなさい」
「お前は何も悪いことしてないだろ」
「それ私のセリフなんだけど」
「あー…その、突然知らない男に自宅に誘われて…怖くなかったか?」


彼の問いに背筋が凍った。改めて考えるととても恐ろしい。まだ夜になりかけの時間だったとはいえ、辺りは十分薄暗かった。そこで知らない男の人に声を掛けられて、自宅に誘われて、私はのこのこ着いて行った。考えたくないけど、お金を盗られたり、レイプされていたかもしれない。最悪命がなくなっていたかもしれない。日本とは違うのだ。それなのに私は全く危機感を持っていなかった。色々追い詰められて感覚が鈍くなっていたのかもしれない。もうどうでもいいと無意識に感じていたのかもしれない。何事もなくて、本当に良かった。声を掛けてくれたのがアーサーで、良かった。顔がこわばったままアーサーを見つめてしまったのがまずかったのか、彼はばつが悪そうに口元を手で覆い目を逸らした。


「本当に悪かった。勿論変に下心があったわけじゃないんだ。俺の家の側は比較的治安は良いが、それでもあんな時間にお前みたいな若い女性がいたら何があるか分からないからな。うちには湾もいるし、大丈夫かと思ったんだが…」
「うん。…うん、今思うと本当に、自分はなんて軽率だったんだろうって、いつもの私なら考えられないことしたなってびっくりしてる。でも、その相手がアーサーだったから、私は今ここにいるのよ。だから、私が貴方に言うべきことはお礼なのかもしれない」
「…そんな風に思ってもらえるだけで、俺は嬉しいよ。でも、自分のことをあんまり卑下するなよ。昨日お前に声を掛けたのは、お前が女性だったからじゃない。お前は…いつも、悩んで……泣きそうだ。昨日もそうだった」


返事に困った。人にそう見られていたことにも少なからず驚いたし、彼がいつも私の心の奥を見透かしたように話すから、どきっとする反面寄りかかりたくなる。私は想像以上にいつもふらふらしているようだった。昨日だって、笑顔が不自然だと彼に指摘された。そういえば、エリザにも暗い顔をしていると言われた。知らない内に色んな人に心配をかけていた。


「…ずっと思ってたんだけど、アーサーは優しいのね」


呟いて瞬きをする。そうでないとまた泣いてしまいそうで怖かった。鼻の奥がツンとする。苦しいからじゃない。嬉しいからだ。人に想ってもらえるのは、申し訳なさで潰れそうになることもあるけど、本当に救われる。心配をかけてもらえる幸せを理解させてくれたのはアーサーだった。


「俺は誰にでも優しいわけじゃないからな」
「……うん」
「意味、分かるか」
「…え、」
「いや、何でもない…」


何となく気まずくなったのかアーサーは聞き取れないような声で何かぼそぼそ呟いている。私はそれを不思議に思いながらも、私は彼に声をかけた理由を思い出して改めて彼の名前を呼んだ。


「今度、私と一緒に出かけて欲しい」
「……は?」
「昨日泊めてくれたお礼と、それからあのオルゴールも本当に嬉しかった。何か買おうと思ったんだけど、アーサーの喜ぶものが分からなくて」
「お前、それ…」
「もしかして、私と出かけるの嫌?」
「…嫌なわけないだろ。あー…来週の土曜なら空いてる」
「分かった。私もその日なら大丈夫」
「時間は、」
「あれー眉毛と可愛い女の子が一緒に居るなんて珍しい」


後ろから声がしたかと思うと肩に手を置かれる。そのまま私の横に並んだ人は全然知らない男の人で私は固まった。アーサーの端正な顔が不快そうに歪む。


「初めましてお嬢さん、俺はフランシスだよ。眉毛とは腐れ縁なんだよね、最悪なことに」
「お前程俺に突っかかって来る奴は居ねえんだがな。まったく本当に最悪だ。それからその汚い手で彼女に触れるな」
「お嬢さんこんな奴に絡まれて可哀想に。お兄さんが今助けてあげるからね。名前は?」
「いい加減にしろよ髭。今までそれで何人の女とっかえてきたんだ」
「ちょっと、人聞き悪いこと言わないでくれる!?愛が溢れてるだけなんです!そんなんだからお前は彼女出来ないんだよ」
「ばっ…余計なお世話だ髭!」
「女の子の前で声荒げないでくれる?ごめんねお嬢さん」
「あ…いえ、大丈夫です」
「あー、悪いがまた後でな。髭は早くその手を退けろ」


私の肩に置いてあったフランシスさんの手をぱしりと叩いたアーサーが私にこっそりと紙を渡した。「へーちゃんっていうんだ。可愛いね。今度お兄さんと一緒に食事でもどう?」とフランシスさんが私にウインクしたのをアーサーが本当に嫌そうに見ていて思わず吹いた。

彼らと別れてから確認した紙には、アーサーの電話番号とメールアドレスが書いてあった。私はすぐさま自分の携帯に登録してメールを打つ。私の背後でエリザがによによしていたのに気付いたのは、時間を決めるメールを送信した後だった。




2014.11.23