「好きな人いるんだって?」
私は間抜けな顔で彼を見た。鏡なんて見なくても、ブル君がもう一度同じ質問をしたので自分がいかに間抜けな顔をしていたかがよく分かった。だけどそんなの当たり前だ。私達はグループ発表の準備をしていたのだから。大学のある講義の、単位取得のために必要でテストの次に重要な大きいイベント。全然楽しくはないけど仕方がない、良い評点を勝ち取りたいし教授は割と好きだ。高齢の男の先生で、優しくて懐の深い、人として尊敬できる先生。でも異性として好きなわけじゃない。
話が逸れた。ブル君のせいだ。突然まるで関係のない話をするから。それほどにノートパソコンとペンとレジュメには合わない、ピンクのふわふわした話題。
「ブル君は?好きな子いる?」
「話を逸らすのはやめるんだわ」
「何でそんなこと聞くの?」
「風の噂だわ」
「ブル君風と友達だったんだ」
「」
「…秘密」
パソコンの画面とにらめっこするブル君の隣で私はわざとらしく携帯をいじる。全部ブル君に任せているようだけど役割分担はきちんとしている。私の分はもう終わってしまったのだ。あとはブル君が仕上げるだけ。納得がいかないような彼に、急かす気持ちもないのに早くと言う。風の噂ってどうせルー君かフランシスだろう。フランシスかしら。ブル君に何を吹き込んだか知らないけど、恋のキューピッドにでもなったつもりか。じれったい私の背中を押したつもりか。寧ろ蹴飛ばされた気分なのに。彼との距離が縮まったところでタイミングを掴めなきゃ何もできない。私はフランシスと違って、恋の駆け引きなど知らない。自分を可愛く見せる方法も分からない。私にできるのは、ただ好きな人の言動に一喜一憂して、自分らしくいることだけだ。自分自身すら本当は何者なのか何であるか分からないのに。
「ねえ、ブル君は好きな人いるの?」
「お前は流したくせに俺に訊くのか」
「ブル君が訊いてくるから、気になったんじゃない!」
ブル君は考える素振りを見せて少し唸ってから、伏し目がちにぼそりと呟いた。しかし声が小さくて何を言ったのか分からない。もう一度催促すると少し嫌そうに短く息を吐いた。
「いるよ」
頭にがつんとした衝撃。無意識に抱いていた淡い期待が見事に打ち砕かれる。人見知りだし、友達も少ないし、警戒心が強いから、どこかでそんなことはないと思っていた。普通に考えたら、そっちの方が可能性は低いのに。大学生で、周りには可愛い子も綺麗な子も沢山いて、機会はいくらでもある。何もおかしくない。おかしくないけど。
変に意識してしまって、嫌だ。
「そうなんだ…」
「ま…つっても失恋間際だけどな」
「え、告白したの?」
「してねーわ。でも分かる」
誰だろう。私の知っている人だろうか。知りたいけど知りたくない。名前を出されて、友達でもそうでなくても、協力も応援もできそうにない。そこまで私は上手に作られていない。ブル君の視線を独り占めする女の子なんて、きっと大嫌いになるに違いない。
カタカタと無機質なキーボード音が部屋に響く。私はレジュメに目を落としながら、心は宙ぶらりんだった。綺麗に配列された文字の一つも頭に入ってこない。自分で訊いたくせに、下手に瞬きしたら泣いてしまいそうだった。私はとっくに成人しているが、まだ恋の駆け引きどころか恋の味も知らなかったのだと思い知る。皆がもっと若くて可憐だった頃に通り過ぎた青い春を、私は上手に咀嚼できていなかった。一人、取り残された気分になる。
「他に言うことないのか?」
「え?えーと、特には…」
「…相手が誰かとか、知りたくねーのか」
「…訊いたら答えてくれるの?……いたっ」
私の頭をグーでぐりぐりし出すブル君に思わず声を上げる。どんな形であれ彼の手が私に触れていて、お蔭で至近距離にブル君の顔があることに、喜びもときめきも隠しきれない。頭は痛いけど、胸は幸せでいっぱいになった。マゾみたいで変態くさいのが唯一の汚点だ。されるがままになっていると、ブル君が不機嫌MAXな手付きで乱暴に私の頭を撫でる。わけのわからないギャップにひたすらやられている間に、ブル君はあからさまに距離を詰める。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
「えっ」
「静かに」
素朴で整った顔が近付いて、心臓が爆発する前に彼の口と私のそれが合わさる。時間にしたら一秒もなかった。すぐに離れて、元の位置へ戻る。私はただ阿呆みたいに自分の唇を指で触れた。途端に全身にかっと熱が集まる。心臓が爆発する準備を再開させる。動揺を抑えるために不用意に瞬きをしたせいで、頬に涙が伝った。なに、一体なにが、なにを。
「…悪かったんだわ」
「……」
「泣かせるつもりなんか、これっぽっちも…」
対して全然動揺の色も見せずに飄々としていたブル君が、私が泣いてしまったのをみて酷く後悔したようだった。
違う。嫌だったんじゃない。驚いただけだ。だけど一つ、気になることがある。
ブル君の好きな人は私なのか。そんなはずはないと思っても、キスを、されてしまった後では、上手く否定できない。血の昇った頭では考えても考えても必ずどこかで熱にやられて答えに辿り着けない。一人の頭の中だけでは、分からない。何もかも分からない。好きな人に想いが通じないと分かったから、身近にいる女の私にあんなことをしたの?私に乗り換えるの?それとも、やっぱり私のことが好きなの?
「…失恋確定なんだわ」
「…ばか!」
色々なことが駆け巡って、だけどどれも形にして表に出せなくて、それでも早く気付いてほしくて、私は精一杯の皮肉と罵声を同時に吐き出した。溢れる涙を拭って、化粧が崩れるのもお構いなしに続ける。
「誰が好きなのかなんて、ブル君に訊けるわけないじゃない…何を好き好んで……好きな人の好きな人なんか……」
最初の勢いは途中で消え失せて、情けない醜態を晒してしまう。顔を見られたくなくて下を向いているので、ブル君がどんな表情をしているかは全く分からない。
フランシス、やっぱり貴方は恋のキューピッドなんかじゃなかったわ。想いを伝えられたのに、両想いだと分かったのに、迂闊に手を出せやしない。駆け引きの仕方も分からない。恋が甘いのか酸っぱいのか苦いのか辛いのか分からない。分かったのは、いますぐ死んでしまいたい衝動だけだ。
しかしなんという贅沢だろう。ブル君の視線を独り占めする女は私だ。私だけだ。私は私のことが、大嫌いだ。
ブル君がうなだれる私の頭に再び手を置いた。今度は優しい手付きだった。でも何も言ってはくれなくて、私は静かに唇を噛む。恋の味を知らない私達は、滑らかに息ができない。
青
2015.9.14
material:HELIUM
5周年記念企画リクエスト
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