actriță
*会話が下品です。




「選択肢は二つだ」



走って、走って、走って。息を整える暇なんてなかった。私を照らそうと動き回る光を避けて、建物の陰に隠れる。手で口を押さえて、少しでもこの荒れた息遣いを音として漏らさないように、けれど再び動くことを考えて、必死に酸素を吸い込む。生理的な涙が瞳の上を埋めているせいで視界が揺れていた。同じ動作ばかり繰り返したせいなのか、もしくは激しく稼働し続けたせいなのか、脚はガタガタと震えている。上手く力が入らない。けれど。
逃げなければ。私はここから脱出しなければ。
人々の声が遠くで響く。私は壁を指でなぞりながら、ゆっくりと路地裏へ足を進めた。
瞬間、腕を掴まれる。

「…やっと見つけた」

驚いて喉から怖い音の息が漏れた。逆光で表情は見えないけれど、きっと彼は恐ろしい顔をしているんだろう。私は逃走手段を探すために視線を彷徨わせるが、それを彼の目が追っていく。視線さえも捕まえてしまう彼にぞっとして、歯向かうだけ無駄かもしれないと、この時やっと理解した。

「ルー君…」
「選択肢は二つだ。一つ目。このまま大通りに出て、お前を血眼になって探しているやつらの手の中へ戻る。お前は国だし、一応正規の理由、正規のルートで入国しているから、酷い目に遭わされることはないだろうけど……でも、国だから、ちょっと痛くても大丈夫だって思われているかもしれないね」

ほら、おいらがそうだから。そう言って彼は袖を捲り、包帯の巻かれた腕を見せる。黄ばんでいて、所々破れていて、そして酸化し黒くなった血が付着していた。

「二つ目。こっちは簡単だ。おいらとちょっとした演技をする。おいらがいいと言うまでお前は女優になるんだ」
「…演技ってどんな?」
「話が早くていいね。二つ目にする?」

質問には答えず、私の腕を引いて私の身体を自分の方へ引き寄せたルー君が、にっこりと笑った、のが分かった。私を探す光は大分近いところまで来ている。嫌な汗が出た。

「二つ目にするなら、おいらにハグをして。……おいらがお前を助けてあげる」

もうそれしか選べないような距離で、彼の息が私の耳を直に掠めた。温くて、湿っていて、甘くて、苦そうだった。彼は、選択肢は二つだと言ったけれど、最初から一つしかなかったのだ。
私は彼に腕を引かれたまま、もう片方の手を彼の首に回す。やせ細った彼に優しくしがみついた。

「…良い子」

ルー君は私の腕を離して私を緩く抱き締める。そして数秒私のにおいを嗅いでから、すっと私を解放した。

「おいで、

そこからは本当に彼の言いなりだった。普通人が通らないような道無き道を、彼は歩いて行った。とはいってもきっちりと石で舗装されていたので、道無き道という表現は厳密には間違いだ。けれどそれくらい、一度でも人の足がそこの上を通ったのだろうかと疑ってしまうような、命のない道だった。
気が付いたらあまり大きくない屋敷の前にいて、彼に背中を押されてその中へ入る。

「しばらくはここに居よう」
「…私、どんな演技をすればいいの?」

逃げている最中、私は女優ではなかった。ルー君はそれらしいことは何も言わなかったし、誰とも会わなかったので演技をする必要もなかったのだ。
彼は首を傾げて、それから、ああ、と今やっと思い出したかのように、それでいてちょっと恥ずかしそうに、口を開いた。

「おいらを好きになって」
「……」
「黙るのはやめてよ。こう見えてあんまり女の子に耐性ないんだ…」

絶句した。彼の顔はあまりにも可愛らしいではないか。これも演技の一部なのかと思ったけど、演技で頬まで赤くできたりするのだろうか。加えて女に耐性がないって?世紀末を何回跨いできたのよ。童貞なのかしら。

「違うよ」
「何、突然」
「おいら童貞じゃないよ。えっちだね
「心読んだ?」
「目がそう言ってた。そんなに興味あるんならおいらとする?あーでもベッド古いんだよね…ソファでもいい?」
「しないわよ」
「おいらのことを好きになっているならできるよ」
「貴方と繋がってるところを上司に見られたら死ぬ」
「上司達に見つかったら抜いて外に出してあげる」

ルー君が下衆なことを言ってくるので可愛らしさなど消え失せた。上司に見つかったら外に出すとは、つまり見つからなかったら中に出すつもりか。最低か。いくら子供ができないからって。
路地裏で彼に捕まった時に感じた恐怖は、いつの間にかなくなっていた。

「冗談だよ」
「センス無さすぎ。傷付いた」
「ごめん。でも許して。の顔が固いから、ほぐしてやろうと思っただけなんだよ」
「もっと他に方法あるでしょ…」

おかしな会話だ。いい大人の男女のセリフとは思えない、ムードの欠片もなければ品もない会話。

「セックスだけが愛情確認の方法じゃないよ」
「それ、ルー君が言う?」
「でも、おいらを好きになったら、色々考えが変わるかもね……はやく、おいらを好きになってね」
「…そう。これが女優の始まりってわけ」
「さっきからそう言ってるんだよ」

あまり広くないリビングで、彼は私の腰に腕を回す。彼のにおいがぶわっと広がって、好きでもないのにちょっとドキドキした。何だろう、雌の本能かしら。そういえば暫く恋人のいない生活を送っていたんだった。寝室のベッドに敷かれたシーツが嫌に冷たくて。
私の家は今どうなっているかしら。上司は私を探しているかしら。ああ、家政婦を雇っておくんだったわ。せっかく自宅に帰ってきたのに、埃塗れのソファに座りたくない。だけどそんなこと、今考えても仕方のないことだわ……私は今日から女優。ルー君のことが好きでしょうがない女。
様々な条件に意外と当てはまっていたお蔭で、私はすんなりと女優になれそうだ。ルー君の言った通り、そのうち本当に彼に抱かれる夜を迎えてしまうかもしれない。今更生娘を装っても仕方がないので、そうなったら素直に脚を開こうと思う。
ああでも、中に出されるのはやっぱり嫌だ。切なくなるから。

「大丈夫だよ」

彼は私を抱き締めているから、目なんか見えないはずなのに。

「おいらがお前の側にいるから、大丈夫…」
2017.1.20
material:伝染病